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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ24
B29墜落と桑名中学生

太平洋戦争末期、サイパン・グアム、沖縄と、日本はアメリカの攻勢で追い詰められ、アメリカの爆撃機B29が日本本土の上空を我がもの顔に飛びました。しかし日本の防衛網では、これを打ち落とすことが殆んど出来ませんでした。しかし偶々打ち落すこともありました。昭和20年6月22日の各務ヶ原攻撃の際にB29の1機はエンジンを破壊されて、桑名郡長島村(当時=以下同じ))に墜落しました。乗務員11人はパラシュートで脱出、1人は長良川中に落ちて溺死しました。もう1人は河芸郡上野村で遺体が発見されました。無事に地上に降りた乗務員は弥富村で3人、鍋田村で2人、永和村で2人、長島村で2人の9人でした。

機体が落ちた様子を当時の新聞では「二十二日午前三重県桑名郡長島村に撃墜された、三条の白煙をひき不時着姿勢で墜落―巨翼は北勢特有の湿田に一旦は原型のまゝ突込みながら数秒後には三千ガロン以上を搭載してゐたと思はれる自身の主翼内燃料槽の大爆発で木ッ端微塵になつて飛散、約二町四方に渉る湿田用水路一帯に金属層となって沈んでしまった(下略)」(昭和20年6月23日付『中部日本新聞(現中日新聞)』)。

機体が落ちた現場は国道一号線東であり、落下傘で降りてきた場所は国道一号線と現在の長島中央道の交差点東側付近でした。アメリカ兵は「憲兵につれて行ってください」と書いた札を胸に下げていました。村人たちは竹ヤリや農具でアメリカ兵を小突きました。

あるホームペイジに、降りてきた乗務員は即日木曽川原で斬首処刑されたと書いてありますが、それは愛知県側での話と思います。三重県では長島村の2人は桑名警察署に連行され、玄関前で警防団長に殴られた現場を多くの人が目撃しています。警察署では取り調べるために通訳が必要でしたが、警察署の近くに住んでいた桑名中学生を呼んで来て、通訳させました。戦時中でも桑名中学では英語の授業はありましたが、一般には英語は敵性語として排除されていました。通訳をした中学生は母親がロンドンで暮らしたことがあり、彼の家庭では英会話も話していたようです。なお連行されてきたアメリカ兵は、その後にどうなったかは定かではありません。

B29が墜落して1人が死亡した現場には、敗戦後まもなくアメリカ軍によって慰霊塔が建てられ、長島小学校の6年生が慰霊祭に参加しました。また昭和21年11月、長良川の堤防に、長島村出身の某氏によって木製の十字架が建てられました。新聞も「米空軍勇士の霊よ安かれ」と書いています(昭和21年11月15日付『伊勢新聞』)。

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