幕末・維新の桑名藩シリーズ <41>
「その後の松平定敬」
幕末・維新の桑名藩シリーズ38で述べましたが、前桑名藩主の松平定敬は明治2(1869)年8月27日から東京の津藩邸で謹慎生活をしました。明治4年3月15日に東京の桑名藩邸に定敬は移され、同年4月7日に桑名に戻ってきました。実に7年ぶりの帰郷です。その後は桑名で謹慎生活を送りました。同年5月から「晴山」の号で呼ばれました。
定敬は明治5年1月6日に恩赦で罪を許され、自由の身となりました。2月21日に初姫と結婚しました。初姫は定敬の前の桑名藩主・松平定猷の長女です。定敬は初姫と結婚を前提として婿養子に来た人です。まだ幼かったし、幕末維新の動乱期で結婚に至っていなかったのです。正式に結婚した時は定敬は27歳、初姫は16歳になっていました。旧藩主家は東京に住むことを義務付けられましたので、2月29日に定敬は四日市港から蒸気船に乗って東京向かいました。その時に同行したのは、初姫、妾、付添人でした(「豊秋雑筆」)。正室の他に側室がいたようです。
東京大学史料編纂所所蔵の「松平定綱家譜」によりますと、定敬の息子に喜雄がいます。喜雄の母は「家女」とあり、名前が書いてありません。彼女が側室だったのでしょう。定敬と正室の初姫との間に2男正雄、3男敏雄が出来ています(松平初子墓碑銘)が、いずれも夭折したようです。上記とは別の側室(別所儀兵衛の娘)が生んだ和雄が4男であり、後に定晴となって松平家を継いでいます。和雄(定晴)は明治16年生まれですが、先の喜雄が長男だったのかもしれません。
話を戻します。明治5年定敬は上京して間もなくの3月14日、華族の籍を離れて、平民の籍に入りたいとの願いを政府に提出しましたが、認められませんでした。同年11月には私費でもってヨーロッパへ旅行しています。旅行の具体的な内容は判りません。明治9年11月11日に従五位に授けられています。その後は死亡直前に従二位を授けられています。歴代の桑名藩主では最高の位です。
明治20年12月に旧桑名城内に「戊辰殉難招魂碑」が建てられました。文章を定敬が選びましたが、「桑名の武士も人民も節を守って、忠義を尽くした」との意味のことが書いてあります。薩摩・長州の欺瞞に満ちた戊辰戦争への痛烈な批判が込められているのです。
明治27年1月24日に日光東照宮の宮司に就任しています。兄の松平容保も日光東照宮の宮司を勤めていたので、兄弟とも徳川家を守る立場を貫いたのです。健康がすぐれず、3年足らずで宮司を退任して、以後は東京で住んだようです。明治41年7月21日病気で亡くなりました。享年63歳でした。2日後に東京染井墓地に葬られました。正室の初姫は先に明治34年2月3日に亡くなっており、やはり染井墓地に葬られています。
【参考文献】
「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
「公文録」(国立公文書館所蔵)
「桑名藩御触留」(西尾市立岩瀬文庫所蔵)
「豊秋雑筆」(鎮国守国神社所蔵)
「松平定綱家譜」(東京大学史料編纂所所蔵)
「松平定教墓碑銘」「松平初子墓碑銘」(染井墓地)
『昭和新修 華族家系大成 下巻』(霞会館 1984年)
『海外渡航者総覧』(国立教育会編 1992年)
『松平定敬のすべて』(新人物往来社編 1998年)
西羽晃「維新の桑名藩を導いた女性―珠光院貞姫―」(『桑名市博物館紀要』第6号2006年)