幕末・維新の桑名藩シリーズ <42>
「平松屋(金子)寅吉」
平松屋寅吉(金子寅吉とも言いますが、以下では単に寅吉と書きます)については、これまで折りに触れてきましたが、ここでまとめて書いておきます。彼は桑名藩の飛び地である越後の新道村(現柏崎市)の出身のようですが、生没年とも不詳です。幕末に横浜へ出て、貿易商となったようです。文献に初めて登場するのは、明治元(1868)年12月3日、桑名藩家老酒井孫八郎が横浜から青森行きの船に乗る際に寅吉が案内しています。次に2年3月7日に函館(当時は箱館と書きましたが)へ寅吉が来ています。函館に居た元桑名藩主の松平定敬の資金が不足しており、資金を求めて東京へ連絡をしたので、寅吉が資金を持ってきたようです。
新政府軍が函館へ攻めてくる前に、松平定敬は函館脱出をしますが、その船を手配したのは寅吉でした。函館のフランス人と交渉し、4月12日早朝に定敬はアメリカ船に乗船し、酒井孫八郎も寅吉も同乗します。酒井孫八郎は横浜で下船しますが、定敬と寅吉はそのまま上海へ行きます。定敬は上海での宿泊など独りではできなかったと思われますから、寅吉が付き添って世話をしたのでしょう。寅吉は貿易商ですから、多少の英会話はできたので船中でのアメリカ人との会話、上海での宿泊交渉をしたと思います。
定敬と寅吉は5月18日に横浜へ戻ってきました。寅吉は翌日に桑名へ向けて出発し、6月5日に桑名を発って、12日に横浜へ戻ってきています。定敬が横浜へ到着し、新政府軍に降伏する情報をいち早く桑名へ届ける使者となっています。桑名藩は占領下ですから、藩の武士たちは自由に行動できないので、民間人である寅吉が連絡役になったのでしょう。
その後の寅吉については、3年5月19日に桑名藩士の有力者たちと写真を東京で写しています。その写真は寅吉は後で控え目に写っています。6年に定敬が横浜でアメリカ人から英語を学ぶ時に、寅吉が経費を出していますし、7年に定敬がアメリカへ留学するたるための費用も寅吉が出しています。
7年9月には「茶売込商人 金子寅吉」の名が見えます。12年3月7日付けの横浜洋銀取引所創立証書に「神奈川県平民 横浜南仲町3丁目48番地 金子寅吉」とあり、横浜洋銀取引所の創立に参加しています。南仲町は横浜に金融界の中心地でした。14年には「南仲町2丁目45番地 平松屋金子寅吉」が両替商として記録されています。17年に共同両替所設立に寅吉が参加していますし、横浜で外国為替に携わっていました。37年7月15日に金子寅吉に旧桑名藩の藩士なみに公債を出してほしいと政府に願いを出しています。その結果は不明です。
何年か判りませんが、旧桑名藩士たちと写した写真が残っています。その写真には寅吉が真ん中で大きな顔をして写っています。
寅吉からの5代目である金子貴雄(1971年生まれ)の言では、寅吉の子の市太郎は会津松平容保の三女「きた」と結婚しています。
【参考文献】
西羽晃『郷土史を訪ねて』(自費出版 2001年)
バーバラ寺岡『幕末の桑名』(桑名市教育委員会 2006年)
「公文雑纂」(国立公文書館所蔵)
金子貴雄ブログ