幕末・維新の桑名藩シリーズ <43>
「服部半蔵正義(まさよし)」
服部半蔵正義の先祖は伊賀忍者集団の頭領として有名な服部半蔵石見守半蔵正成(まさなり)です。正成は 徳川家康の信任を得ていました。彼の息子は石見守正就(まさなり)と半蔵正重(まさしげ)の2人です。正成の妻は桑名松平家の娘・松尾です。正重は不祥事件に連座して、徳川家から追放されました。そのため兄嫁の実家である桑松名平家に仕えることになり、代々半蔵を名乗り、松平家の家老を勤めました。12 代目が服部半蔵正義(以下、正義と書きます)です。正義は弘化2(1845)年9月 29 日(一説に嘉永元=1848 年9月 29 日)に生まれました。慶応元(1865)年に 21 歳(数え年)で家督を継いで、家老に就任しました。
当時の桑名藩主・松平定敬は京都所司代として、京都で活躍していましたから、正義も藩主を助けて京都で活躍しました。慶応3年の藩政改革で御軍事総宰となり、桑名藩軍の総指揮者となりました。
慶応4=明治元年正月、鳥羽伏見の戦いがあり、正義も参戦しましたが、負けましたので、大坂から江戸へ逃げて、越後柏崎に到着しました。柏崎は桑名藩の飛び領地でした。ここで桑名藩軍の再編成があり、正義は再び御軍事総宰となりました。正義は以後の戦中の記録を書き留めた「服部半蔵日記」として今に残されています。その中では新政府軍を「賊」とか「薩賊」と書いており、薩摩こそ賊軍だと主張しています。
柏崎から会津へと転戦を繰り返しますが、新政府軍の強力な軍事力に圧倒され、明治元年9月 26 日、出羽庄内(山形県鶴岡市)で降伏しました。庄内藩に身柄を拘束され、寒い冬を過ごしました。明治2(1869)年2月5日に庄内藩の護衛の下に、庄内を出発し、東京を経て東海道を上り、3月5日に七里の渡しを通り、無事に桑名へ帰りつきました。
思えば死を覚悟して、あちこちで戦い、やっと故郷に戻ったのでした。正義は感慨無量で、思わず涙を流しました。当時の桑名は名古屋藩と津藩との占領下にあり、帰宅は許されませんでした。十念寺に収容され謹慎させられました。
同年8月に桑名藩の再興が認められ、11 月には戦争責任者として桑名藩士・森陳明(つらあき)が東京で処刑され、桑名藩の敗戦処理が完了しましたので、12 月には正義以下の桑名藩士の謹慎も解かれて、自由の身になりました。
その後の正義は明治3年3月 20 日に桑名藩大参事に選ばれ、桑名藩が無くなってからは7年5月に三重県第九大区長(阿山郡)、同年8月に第三大区長(桑名郡)などを勤めました。10 年に西南戦争が始まると、政府軍に入り、同年7月に第四大隊第三中隊長心得として参戦しています。戦争終結後は 11 年2月に第三大区長に復帰し、12 年2月まで勤めています。13年7月には旧桑名藩士が広瀬野(鈴鹿市)を開拓するための資金5万円を政府から貸し付けられるように、桑名藩士のために尽力しています。そして明治 19 年に桑名で亡くなり、顕本寺に葬られました。今は子孫と顕本寺とは縁が切れて無縁墓となっています。
【参考文献】
「服部半蔵日記」(個人蔵) 「公文雑纂」「公文別録」「アジア歴史資料センター」(国立公文書館所蔵) 『三重県史(上)』(弘道閣 1918 年) 『三重県史(資料編 近代Ⅰ 政治・行政Ⅰ』(三重県 1988 年) 西羽晃『郷土史を訪ねて』(自費出版 2001 年)