幕末・維新の桑名藩シリーズ <44>
「神仏分離―仏眼院性恒から三崎葦牙へ―」
江戸時代まで神仏混淆で、寺院の中に神社があり、神社の中に寺院があるのは普通でした。そして神社よりも寺院の方は格上で、寺院が神社を支配していました。桑名でも春日神社の境内に神宮寺があり、神宮寺の住職と春日神社の神職は近くの仏眼院の住職が兼務していました。幕末の仏眼院の住職は仏眼院性恒と言いました。
明治政府が出来ると、寺院と神社を区別するように、そして寺院よりも神社を格上としました。江戸幕府では「寺社奉行」が管轄していた宗教政策は明治政府は「社寺係」が管轄することになりました。文字の上からも上下関係が替わったのです。
慶応4(1868、この年は9月8日から明治と改元されました)年3月28日に政府から神仏判然が命令され、神社の中にある仏教色を取り外すように命じられました。当時の桑名城は政府軍に明け渡されており、桑名藩の取締りは尾張藩が当たっていました。政府も出来たばかりで政策も流動的だし、通達もスムーズに伝えられず、ましてや尾張藩を経由しての通達ですから、桑名への連絡にも時間がかかりました。連絡も間接的なので、内容もはっきり伝えられませんでした。問い合わせても、尾張藩自身も答えられず、京都の新政府へお伺いして返答を貰うので、非常に時間と手間がかかりました。
8月25日になって、尾張藩の取締役所に仏眼院性恒は呼び出されて、住職を勤めるか、神職を専門にするか、今晩中に返事をせよと迫られました。性恒は1晩中悩み続け、翌朝早くに神職専門になる決意書を提出しました。
ところが、その後は何の沙汰もなく、月日が過ぎて、明治2年9月3日になって桑名藩の再興が実施され、尾張藩の取締りが解消しました。政府との連絡も直接に行われるようになりました。9月25日に桑名藩の役所から神仏をはっきりさせよ、との連絡がありました。性恒は何度も問い合わせをして、仏眼院住職の立場を離れ、春日神社の神職として生きる道を選び、10月22日に神職になる事が正式に決定されました。名前も仏眼院性恒から三崎葦牙と改称しました。
春日神社の境内にあった神宮寺にあった仏像は、10月24日に仏眼院に移され、27日から神宮寺の建物の取り壊しが始まりました。春日神社の門は神宮寺の門を兼ねており、仏教様式の門でしたので、取り壊すべきか、どうかを政府に問い合わせましたところ、「そのうちに取り壊せ」との返答でした。「そのうちに取り壊す」つもりだったのですが、そのままの状態で使われ、昭和20年7月17日にアメリカ軍の空襲で焼いてくれました。
平成7(1995)年に仏教様式を取り除いて再建されましたのが現在の春日神社の門です。
【参考文献】
「三崎家文書」(桑名市博物館所蔵)
西羽晃「桑名における神仏分離の一端-仏眼院性恒から三崎葦牙へー
(『論集 三重の古文化』1997年所収)