幕末・維新の桑名藩シリーズ <40>
「その後の松平定教」
前回に述べましたように、明治2(1869)年9月20日に松平定教が桑名藩知事に任命されました。最後の桑名藩主です。その頃は揖斐川沿いの新御殿(現在の吉之丸)に住んでいましたが、明治3年4月19日に従来の藩主御殿である三之丸御殿(現在の市営駐車場付近)に移りました。明治4年7月14日に「廃藩置県」が実施され、定教は藩主の地位から退き、政府の命令で東京に住むことになり、同年9月7日に桑名を発って同月18日に東京へ着いています。住んだ場所は旧桑名藩下谷七曲り屋敷(浅草)でした。廃藩後も松平家屋敷として使用が許されました。
定教は旧桑名藩士の駒井重格らとアメリカ人ブラウンから英語を学びました。しかし、明治5年9月に東京のブラウン塾は閉鎖となり、ブラウンは横浜へ移ったので、定教たちも横浜伊勢山宮崎町新松屋伊勢太郎方に寄宿し、横浜市学校でブラウンの教えを受けたようです。ブラウンは横浜の自宅で私塾を開くことになりましたが、10人の生徒に1人に毎月10円の月謝を要求されました。合計して毎月百円が必要でした。定教はじめ旧桑名藩士も学ぶことになりましたが、資金がありません。そのため平松屋(金子)寅吉が毎月百円を提供してくれました。彼は桑名藩の飛び地の柏崎の出身で、横浜で事業家として成功した人物です。
明治6年7月30日に定教は松平家伝来の「集古十種板木」(85冊、1439枚+題板10枚)を政府へ献上したいと申し出ました。しかし、政府はとくに必要でもないし、膨大な量なので運送・保管に困難だと断わりました。現在、この板木は桑名市の鎮国守国神社に所蔵されて、国の重要文化財に指定されています。
明治6年9月に横浜山手町211番地のブラウン自宅で塾が開かれました。ブラウンはキリスト教の牧師でもあったので、英語の他にキリスト教も教えました。政府は旧大名の子弟に外国へ留学させることを勧めましたので、定教もアメリカへ留学することになり、ブラウン塾は閉鎖されました。留学は自費のため、平松屋が資金援助したのだろうと私は推測しています。
定教は留学に先立ち、明治7年7月に政府の許可を得て、桑名へ戻り、義母の珠光院貞姫を見舞ってから、京都大阪を巡っています。そして同年11月20日に定教は駒井重格を連れて横浜港から旅立ちました。留学先はニュージャジー州ニューブランウィック市のラッカーズ大学です。ここで定教は理科を学び、駒井は経済学を学びました。
留学中のことはよく判りませんが、明治11年12月8日に帰国し、13年には外務省イタリア公使館勤務となっています。16年2月4日に、山岡鉄太郎の2女・鈴子と結婚しました。17年に子爵を与えられ、式部官となっています。30年に退職し、正四位を与えられ、この年に貴族院議員になっています。32年5月21日に享年43歳で亡くなり、東京染井墓地に葬られました。子どもは1男3女が生まれましたが、長女の栄子のみが成長し、松平定敬の息子・定晴と結婚し、松平家が継がれました。
【参考文献】
「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
「公文録」(国立公文書館所蔵)
「桑名藩御触留」(西尾市立岩瀬文庫所蔵)
神埜努『柳本通義の生涯』(共同文化社 1995年)
西羽晃「維新の桑名藩を導いた女性―珠光院貞姫―」(『桑名市博物館紀要』第6号2006年)