桑高百周年シリーズ33
下河茂嗣(しもかわしげつぐ)校長先生(2) |
1945(昭和20)年7月17日未明、桑名はアメリカ軍の焼夷弾攻撃を受けました。桑名中学校にも焼夷弾が雨あられの如くに降ってきました。校長である下河茂嗣先生は責任者として学校へ駆けつけ、奉安殿(桑高シリーズ30で書きました)から御真影・教育勅語を出さねばなりません。校舎が焼ける中で、下河先生は全身に大火傷を負いました。
その後の8月15日、終戦の詔勅が天皇の肉声でラジオ放送(玉音放送)されましたが、下河先生は包帯姿で床に伏して、数人の先生方と共に玉音放送を聞きました。その時の下河先生の心情は如何ばかりだったが、計り難いですが、ともかく校舎を復興して、中学校の授業を再開することが急務でした。
県の手続きを待っていると、時間がかかり過ぎますので、下河先生は独断で校舎再建のために、火傷が癒えぬままに動きました。まず員弁郡平古にあった旧海軍航空隊仮兵舎の払下げを受けて、解体・移築してバラック校舎を建てました。同年10月1日に新校舎は竣工しましたが、これは県下で最初の復興校舎でした。2部授業(午前と午後に分散した授業)でしたが、やっと授業を受けることが出来ました。ついで桑名市内坂ノ下にあった旧高射砲隊兵舎も解体・移築して、翌46年4月から2部授業を解消して正常な授業を開始できました。
さらに本格的な校舎建築のために尽力。戦後の処置として、学校所有の武器引渡し、軍事教育の撤廃、奉安殿の撤去、武道の中止、修身・国史・地理の授業停止など、占領軍から次々と命令され、その対応に追われました。 戦後の大きな改革として、学制改革があります。とくに旧制の中等学校・高等学校は解体され、新制の中学校・高等学校に変わりました。桑名市内にあった三重県立桑名高等女学校・桑名市立高等女学校・三重県立桑名中学校は廃止となり、この3校が統合して、新制の三重県桑名高等学校が誕生しました。
旧制の中等学校長は主として、新制中学校へ移ることになり、下河先生も1948年に新制の四日市北部中学校長となり、新制中学校の基礎固めに尽力されました。このころは制度も運営方針も次々と変わり、50年には新制の河原田高等学校長となり、51年に三重県神戸高等学校長となり、52年に員弁高等学校長と1年おきに転勤しました。