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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ32
下河茂嗣(しもかわしげつぐ)校長先生(1)

下河茂嗣先生は旧制桑名中学校の最後の校長先生です。

下河先生は1899(明治32)年に福井藩の士族として、福井市に生まれ、1916(大正5)年福井中学校を卒業。1922年東京高等師範学校(現筑波大学)文科第3部を卒業して、福井県大野中学校の英語教諭となりました。その後金沢第一中学校、東京府立第二中学校教諭となり、1936(昭和11)年に三重県立津中学校教頭となりました。満41歳の1940年に三重県立木本中学校長になっています。そして太平洋戦争末期の1943年に桑名中学校長となり、戦災・廃校という未曾有の激動を乗り越えられた先生です。

戦時中の中学校は軍事優先で、何もかも軍隊の命令に縛られていました。下河先生は英語の先生であり、府立第二中学校時代は英米人の英語教師を自宅へ招き、交友しているリベラリストでした。その英米と日本が戦争を始めたのですから、戦時中は非常に苦悩されたと思われます。

戦時中の二つのエピソードがあります。一つは軍隊からの各中学校長へ「入隊志願者名」を提出を求められました。下河先生は最初の数回は「適任者なし」と回答していましたが、軍隊の司令部から出頭を求められ、提出しない校長は「非国民だ。辞職せよ」と強く批難され、仕方なく「志願者名」を提出せざるを得ませんでした。軍隊へ行くことになった生徒には同級生たちが寄せ書き署名した日章旗が渡されましたが、三重県立桑名中学校長下河茂嗣も大きく署名しています。1943年、海軍飛行予科練習生に合格した川瀬作三郎君に渡された日章旗は遺族から桑名高校に寄贈され、現在桑名高校に保管されています。

もう一つは学徒勤労動員にまつわる話です。このことは桑高シリーズ28で、すでに書きましたが、当時の中等学生は学校へ行かずに、工場へ行って働きました。遠方の工場へ行くために親元を離れて、寄宿舎に入る場合もありました。桑名中学でも名古屋の工場への動員を示されましたが、下河先生が「桑名に軍需工場があるのだから、桑名に勤めさせて欲しい」と要求したので、桑名中学生は親元から通勤できました。

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