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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ01
桑名藩主松平定猷の死

 幕末・維新の桑名藩を語るには桑名藩主松平定猷から始めねばならない。家定が将軍に就任したため、定猷は「定」の字を遠慮して、一時「猷」とのみ称したが、猷没後に定猷に復しているので、本稿では全て定猷に統一しておく。

 松平定猷の父は松平定和、祖父は松平定永、曽祖父は松平定信である。母は島津重豪の娘・孝姫(のちに柔正院)である。余談ではあるが、彼女が持参した婚礼調度品には島津家と松平家の家紋が付けられている。その一部が現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている。

 定猷は天保5(1834)年5月28日に生れた。父の定和は天保12年6月22日に桑名城内で没した。そのため定猷は僅か8歳(数え歳、以下同じ)で家督を相続した。まだ幼年なので、信州松代藩主・真田幸貫が後見人となった。幸貫は松平定信の子であるが、真田家へ養子に入ったのであり、松平家と真田家とは緊密な関係にあった。

 真田幸貫の子の幸良の娘・貞姫は天保5(1834)年6月16日に松代で生れた。そして天保15年6月に江戸へ出て、定信の未亡人である至誠院の元に預けられ、桑名藩下屋敷の築地屋敷(浴恩園)に住んだ。

 その後、弘化3(1846)年7月8日、定猷と貞姫との婚約が幕府から許可された。2人の曽祖父は松平定信である。そして2人は同年齢であり、定猷が20日ほど早い生まれである。婚約したものの、貞姫は築地屋敷に住んでいた。至誠院は弘化4年12月11日に死去したが、貞姫は引き続き築地屋敷に住んだ。

 4年余りの婚約期間を経て、定猷から貞姫へ結納が渡されたのは、嘉永4(1851)年12月5日であり、同月9日に結婚している。2人とも18歳である。貞姫は一時病気をしたりして、結婚後5年余りして、安政4(1857)年2月10日に春姫(のち初姫と改称)を江戸で生んでいる。同年4月23日に桑名で側室から男子が生れている。最初は万之丞と名づけられ、のちに万之助と改称した。翌年には江戸で側室から嘉姫(のち高姫と改称)が生れている。

 安政5年6月21日付けで定猷は京都警衛役を命じられ、桑名藩は京都鷹が峰・常照皇寺を仮宿舎とした。定猷自身が京都に行ったかどうか、不詳だが、翌6年8月中頃から江戸で病気となった。病気の発表は桑名では同年8月27日付けである(西尾市岩瀬文庫所蔵「桑名藩御触留」)。病気との発表であるが、実際は死亡していた。しかし後継者が決まっておらず、後を継ぐべき万之丞(のちの万之助)はまだ3歳の幼児である。幕末の多端な折から幼児では心もとなく、急遽養子を探した。9月23日に美濃高須藩松平義建の7男・?之助(のち定敬、14歳)を初姫(3歳)の婿養子に迎える内約を得た。?之助は10月1日付けで家督を継ぐことが許され、同日付けで定猷の死去が発表された。実に1カ月以上も死去が伏せられていたのである。藩主の死去を伏せることは当時としては普通のことであり、先の藩主である定和の場合は、6月22日死去、7月17日発表であった。この場合は嫡男(定猷)が居たので、早かったようである。

 10月早々に?之助は桑名藩江戸屋敷に移り、定敬と名乗り、貞姫は珠光院と名乗った。定敬は京都警衛役を引き受けており、京都・蓮台寺境内に4000坪を屋敷地として拝領している。同年12月には定猷の死去の日を8月22日と訂正している。

(2010.10.28)

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