幕末・維新の桑名藩シリーズ02
桑名藩主松平定敬(さだあき)の始まり |
最初にお断りしますが、前回に「安政5年6月21日付けで定猷は京都警衛役を命じられ、桑名藩は京都鷹が峰・常照皇寺を仮宿舎とした」と書いたが、ある人から「常照皇寺は京都の郊外で市街からかなり離れており、鷹が峰にあるのは常照寺」とのご指摘を受けた。私の認識不足で桑名藩が宿舎にしたのは、鷹が峰にある常照寺であって、常照皇寺は周山にある別の寺でした。
また「9月23日に美濃高須藩松平義建の7男・?之助(のち定敬、14歳)を初姫の婿養子に迎える内約を得た」と書いたが、「松平越中守家系譜」(松平越中守家旧蔵・鎮国守国神社現蔵、私は松平家現当主の松平定純さんから頂いたCD版から読み取った)には7男とあるが、『海津町史(史料編二)』(海津町発行)所収の「御家続帳下」では8男であり、6番目の男子は胎児のままに死亡しているので、その男子を数えるか否かで違っている。ともあれ、私の認識不足をお詫びします。今後もおかしな点があれば、どしどしとご指摘願います。
さて定敬は弘化3年(1846)12月2日に江戸で生まれ、父は美濃高須藩松平義建、母は今西氏(上記の「御家続帳下」では奥山氏)である。高須松平家は尾張徳川家の支藩であって、尾張徳川家に跡継ぎが居ない場合に尾張徳川家の当主となった。定敬の兄弟は多い。兄の慶勝(よしかつ)と義比(よしちか)は尾張徳川家の14代、15代を継いでいる。
もう一人の兄は会津松平家に養子となり、松平容保(かたもり)と称している。容保・定敬は兄弟として、京都守護職・京都所司代として幕末の幕府を支えた。2人は兄弟であり、仲良く協力しあったと言われる。
だが、容保と定敬の母は異なる女性であり、2人は12歳も年が違うし、定敬が生れたのは弘化3年12月であるが、容保が会津松平家へ養子に行ったのは同年4月27日である。2人が幼年期を一緒に過ごしたわけではない。
先代の定猷には側室の子ながら万之丞(のち万之助)という男子がいた。「松平越中守家系譜」によれば、その万之丞を差し置いて定敬を養子に迎えるにあたり、松平家では万之丞を亡くなったとして、定敬を養子に迎えた後の万延元年(1860)に別に生れたと届けたらしい。このあたりの「松平越中守家系譜」の記述は後筆であって、文字も小さくて不鮮明な部分もあり、私が推測して読み取ったのであって、読み間違いがあるかも知れない。
定敬は養子に来るにあたり、付き添いの家臣がいたのか、判然とはしない。多分、定敬は全く知らない世界に、単身で飛び込んで来たらしい。そしてその後に定敬を支えるブレーンらしい存在も確認できない。定敬と家臣との間の意思疎通が充分だったのか、疑問である。これも幕末の桑名藩に悲劇をもたらした遠因であろうか。
定敬は、それまでは部屋住みであり、どれだけ帝王教育を受けてきたのか分からないが、心の準備も出来ぬ間に、急に養子にきたのであるが、さぞかし途惑ったことであろう。しかし、藩主として家督を継いだい上は次々と公的な堅苦しい行事が続いている。
安政6年(1859)11月16日、婿養子及び遺領の継承許可。御譜代席及び京都警衛役に仰付られに始まり、越後国の幕府領の預かり地の継承、諸大夫・越中守を許可など、次ぎ次ぎと行事があり、その都度、お礼に参上している。
翌万延元年1月15日、江戸城本丸普請のための上納金3000両を命じられている。
同年3月7日、本年は帰国すべき年であるので、6月に帰国することを許されている。
ところが、4月28日に帰国許可は取り消された。幕府の勢力が衰えて、参勤交代制が崩れて、帰国したまま江戸に来ない大名が増えて、江戸を守る大名が少なくなったため、定敬は若年で未経験なのに、江戸での滞在を余儀なくされた。しかし、京都警衛役は重要視されており、同年8月15日に仮宿舎の京都鷹ヶ峯常照寺から蓮台寺に出来た陣屋へ移っている。
同年11月8日、四品、溜之間詰に、同12月9日に侍従に仰付られた。
翌文久元年(1861)2月9日に江戸青山五拾人町の桑名藩中屋敷1280坪余を脇坂中務大輔に渡し、上大崎村で500坪を拝領している。数字がアンバランスであるが、上述の「松平越中守家系譜」の記述である。
同年11月には皇女和宮の下向のため、武蔵本庄宿から桶川宿までの警護。この下向には桑名藩の村々に、中仙道の細久手宿などの助郷として人足提供を割り当てられている。実際は人足を出さずに金銭を差し出したようである。
翌文久2年に、やっと帰国が許され、藩主となって初めて桑名に行くことになった。
(2010.11.28)