幕末・維新の桑名藩シリーズ 番外
島津家の姫様が松平越中守家へ |
松平定信の嫡男・定永の子である松平定和(さだかず)は文化9年(1812)8月18日に生れましたが、生後1年も経たないのに、文化10年6月20日に田安斉匡(たやすなりまさ)の娘・猗姫と婚約しています。ところが猗姫は文化14年5月29日に逝去しています(桑名市立中央図書館所蔵「御当家御代々御名前并御法号」)。そのため半年ほど後の同年12月14日、島津重豪(しげひで)の娘・孝姫との婚約が許されています。定和(まだ幼名のままですが、煩雑なので定和と書いておきます)は6歳(数え年 以下同じ)、孝姫9歳です。
文政4年(1821)11月1日、孝姫は松平越中守家(以下、松平家と略記します)の江戸上屋敷である八丁堀屋敷に移ってきています。当時の風習として、結婚前に婚家へ入ることもあったようです。そして松平家の家風に馴染ませる躾が行われたらしい。文政6年に松平家は奥州白川から伊勢桑名へ移封しました。しかし、江戸にいる姫様たちは江戸に在住したままです。
文政9年2月23日、定和は前髪を下ろし、元服しました。そして同月29日に孝姫への結納が納められました。当時の風習としては結納が納められると、直ぐに婚姻だったようです。晴れて夫婦となったので、孝姫様を「若御前様」と呼ぶようにと4月14日に触れ出されています。
子どもが出来るのは遅かったようですが、天保5年(1834)5月28日に男子を生みました。のちの桑名藩主松平定猷です。その後に女子を生んでいます。
父の定永が天保9年に亡くなったので、定和が桑名藩主を相続しました。しかし天保12年6月22日、定和は桑名で亡くなりました。30歳の若さで、わずか3年ほどの在任です。桑名では6月22日に重病との発表がなされましたが、その時にはすでに息を引き取っていたのです。江戸へ早駆けで知らされました。7月18日に死亡が公式に発表されました。桑名で藩主が亡くなったのは、3代目桑名藩主の松平定勝以来、約220年ぶりのことです。その後に6代目桑名藩主の松平定良が京都で亡くなり、遺骸を桑名まで運んで桑名で葬式をして以来約190年ぶりの葬式です。
葬式の準備は1カ月以上もかかり、8月7日に菩提寺の照源寺で執り行われました。棺を運ぶ輿は棒の長さが3間2尺、高さ9寸、厚さ4寸余、桧の節なし、1本の目方30貫目、2本で60貫目(約225キログラム)で、総目方知れず、という大きなものです。城内を出るのも、途中の道路も曲がりきれない箇所もあり、その都度、棺を輿から下して運びました(桑名市博物館所蔵「桑名日記」)。
定和が亡くなったことで、孝姫は柔正院と称されました。柔正院孝姫は長生きをして文久2年(1862)5月16日に江戸で亡くなりました。あと半年後には、江戸住まいの大名の奥方など女性が国元へ帰ることが許されましたが、孝姫は桑名へ来ることはなかったと思います。
なお孝姫を寿姫と書いてある本もあります。例えば『昭和新修 華族家系大系』(霞会館発行)と『桑名松平家伝来資料史料調査報告書』(桑名市教育委員会発行)ですが、それを裏付ける史料を私は見つけられませんでした。江戸時代には高貴な身分の方の名前を憚ることがあるので、途中で改名することが普通でしたから、孝姫がある時点で寿姫と改名されたのかも知れません。
今回の文を書く端緒は、桑名藩主の現当主であらせられる松平定純さんからモニカ・ビンチクさんの論文を貰ったことである。モニカ・ビンチクさんはハンガリー人の女性で、日本の漆工芸を研究しておられ、京都で研究されている。彼女が2009年6月号の『ORIENTATIONS』に「大名の蒔絵婚礼調度」を発表された。その中でニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されている蒔絵の調度品について書きておられる。その調度品には島津家の家紋と松平家の家紋が描かれており、明治維新後に松平家から流失したものらしい。この調度品を持参して島津家から松平家へ嫁入りしてきたのが、孝姫である。その孝姫について書いてみた文である。まだまだ不十分なので、今後も調べていきたい。参考になることがあれば、ご教示いただけると有難いです。
参考にした史料は明記した他に、西尾市・岩瀬文庫所蔵の「桑名藩御触留」を利用した。