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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ04
松平越中守家の江戸屋敷(1)

国立公文書館に所蔵されている「諸向地面取調書」は安政3年(1856)ころの各藩の江戸屋敷を書き上げた資料で、幕府が調査したものであり、信憑性は高い資料である。印刷本は汲古書院から出版されている。この中で幕府から拝領されている松平越中守家の桑名藩江戸屋敷は、@上屋敷 北八丁掘9,301坪(内河岸685坪)、A中屋敷 元矢之倉1,760坪余(松平丹波守へ貸す)、B中屋敷 深川八幡前610坪、C下屋敷 向築地15,676坪4合余(内346坪余稲葉長門守へ貸す)、D下屋敷 白金村503坪(伊達若狭守へ貸す)の5か所があった。
 桑名藩独自で抱えている屋敷は小石川大塚で11,765坪、上大崎村・下大崎村入会4,796坪などがあった。ここでは拝領屋敷の変遷を述べる。

@寛永年間(1624〜43年)に開穿された堀(長さが八丁あった)に因んで付近の町名が八丁堀となり、そこに寛永13年(1636)松平越中守定綱が屋敷を拝領したのが始まりと言われる。江戸時代を通じて上屋敷として使われた。元禄7年(1694)1月23日に門前の堀に架かる橋を越中橋と言ったが、戊辰戦争で松平越中守定敬が負けたので、以後は久安橋と改名された。今は堀底が道路となっていて久安橋は健在である。

A元矢之倉は寛政5年(1793)12月28日に巣鴨にあった中屋敷に替えて、拝領した。寛政5年7月23日に松平越中守定信(白川藩主)が老中を退任しているので、それに関係があるかも知れない。文化5年(1808)4月13日に元矢之倉屋敷は市ヶ谷2,700坪余と交換している。しかし弘化3年(1846)閏5月18日に市ヶ谷屋敷と交換しt、元矢之倉1,760坪余を入手している。

B深川八幡前の屋敷は何時ごろから拝領しているのか不詳である。この屋敷は江戸湾に面しているので、船が発着する蔵屋敷であったと思われる。

C向築地の下屋敷は、下谷竹門にあった屋敷と交換する形で松平定信が幕府の老中首座在任中の寛政4年閏2月12日に拝領したもので、定信の功績により与えられた屋敷である。ここは一橋家の屋敷地の一部であった。ここに定信は庭園を造り、浴恩園と名づけた。

D白金村屋敷503坪余は天保14年(1843)8月7日に、蛎売町の下屋敷3,937坪と交換して拝領したものであるが、面積が大きく違っているし、且つ中心部から離れた場所との交換であって、何か特別な事情があったかも知れない。以下次号。

 付1 現在、柏崎市に住んでおられる霜田文子さんから、先祖の記録の一部を送っていただいた。霜田さんは沢家の出身で、幕末の沢家は桑名藩江戸屋敷に住んでいた。その記録の中に「安政2年10月29日、家内安産女子出生、江戸向築地御中屋敷ニ於テ生ル」「安政6年8月5日、家内安産女子出生、江戸向築地御中屋敷ニ於生マル」とある。また『柏崎編年史』では桑名藩士で俳人の竹内鬼外は弘化3年正月に江戸築地中屋敷から柏崎陣屋詰に仰せ付けられた。弘化から安政のころに築地屋敷が中屋敷になっていたのかも知れないが、上記の「諸向地面取調書」と食い違っているので、今後の検討課題である。

付2 松平定信は天明7年6月19日に幕府の老中に就任したが、同月25日に前任者の久世隠岐守が住んでいた、西丸下の老中役屋敷を拝領している。更に寛政3年11月18日に、西丸下の太田備中守屋敷のうち、709坪余を拝領している。老中を退任後の寛政8年12月に西丸下屋敷を返上し、同7日に退去している。文化9年4月6日に白川藩主を退任し、同月11日に向築地屋敷へ移り、隠居生活に入った。
     主な参考資料は「松平家系譜」(松平家旧蔵、鎮国守国神社現蔵)
「桑名藩御触留」(西尾市岩瀬文庫所蔵)

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