幕末・維新の桑名藩シリーズ06
松平越中守家の江戸屋敷(3) |
向築地屋敷は松平越中守定信が老中を勤めた慰労のために拝領した屋敷である。江戸湾から海水を取り入れる池を中心とする庭園であり、定信が設景して浴恩園と名づけられた。園内には51の景勝があった。定信が隠居後に住んだ屋敷であるが、文政12年(1829)の火事で浴恩園は類焼し、病気だった定信は松山藩上屋敷(芝愛宕下)、次いで同藩の中屋敷(三田、現在はイタリア大使館となり、庭園の一部が残っている)へ避難して、その年の5月13日に松山藩中屋敷で没した。再建された浴恩園には定信の夫人(至誠院)、定信の曾孫定猷の婚約者貞姫が住んだ(「真田家文書」国文学研究資料館所蔵)。至誠院は弘化4年(1847)12月11日に死去したが、貞姫は引き続き浴恩園に住み、嘉永4年(1851)12月9日に定猷と結婚したので、北八丁堀の上屋敷へ移ったと思われる。貞姫の夫である定猷は安政6年(1859)8月22日に死去した。夫を亡くした妻である貞姫は珠光院と称したが、北八丁堀の上屋敷から浴恩園へ移ったかも知れない。しかし文久2年(1862)10月には珠光院は桑名へ移住しているので(「桑名藩御触留」鎮国守国神社所蔵)、その時点からは浴恩園には主人が居なくなったであろう。
拝領屋敷は幕府から借りている屋敷であり、自由に売買できぬのが原則であった。しかし慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗北し、幕府の体制も崩壊寸前となった、同年2月15日に「勝手に譲り受け、譲り渡しは自由」(『続徳川実記』)とした。幕末のどこの藩でも借金だらけ。ご他聞にもれず桑名藩も多額の借金を抱えていた。江戸南茅場町の商人・永岡儀兵衛から2万両を借りていたが返済の見込みもなく、早速に同年3月8日に浴恩園15,979坪余を2万両で永岡儀兵衛に売りわたして借金を棒引きした。この年月日は実に微妙な時期である。即ち戊辰戦争の最中であり、前桑名藩主の松平定敬は江戸を離れる寸前であり、新政府軍が江戸へ攻めてくる直前である。その時の土地の相場は幾らかは分からないが、混乱を目の前にして、相場よりも安いだろうが、うまく売り抜けたのである。もし桑名藩が完全に敗北した後ならば新政府に無償で取り上げられたであろう。永岡儀兵衛は桑名藩の御用商人であるが、万延元年(1860)の「桑名藩分限帳」(桑名市博物館所蔵)では300石25人扶持が支給されている。
売り渡したものの、実際は桑名藩で使用していた。売り渡した3月8日には旧藩主松平定敬は菩提寺の霊巌寺を出て、浴恩園に入り、そこから乗船して横浜へ行き、同月16日に横浜から出航している。その後も暫らくは桑名藩士たちが浴恩園に居たが、新政府軍が江戸へ攻めて来たので、日付不詳だが「楽翁公ノ作リ置キタル庭中ノ池ニ網ヲ投シテ魚ヲ獲、諸士尽ク快飲シテ、其夜邸ヲ出」(「桑名戦記」=「魁堂雑記」巻13、個人蔵)ている。
明治政府は明治2年(1869)9月に浴恩園跡を海軍省が借り受けて海軍操練所が作られた。その後永岡儀兵衛は海軍省に買い上げを願い出て、一時は買い上げと決めたのに、前言を覆して、無償で取り上げると返答してきた。東京府が仲介して交渉し、明治5年8月24日に献納させることになり、その褒美として1500円が下された。2万両で買ったのに、たった1500円とは、新政府も汚い(「海軍省公文備考」国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵)。
明治5年9月12日、新橋停車場で鉄道開業式が挙行されたが、この日は海軍省の構内見学も許された。桑名藩士出身の加太邦憲は見学に訪れ、浴恩園跡を見て、「維持の不行届なることおよび平地樹木の大半が已に他に持ち去られたるを見、甚だ遺憾としたり」(『自歴譜』加太邦憲著)と述べている。この地は大正12年(1923)の関東大震災後に東京中央卸売市場となり、現在も使われている。
なお、桑名藩士の小沢圭次郎は天保13年(1842)に、浴恩園で生まれている。彼は後に庭園研究家となり、江戸時代の大名屋敷が無くなり、その庭園が無くなることを残念に思って、出来る限り庭園の記録を集めている(『明治庭園記』小沢圭次郎著)。自分が生まれた浴恩園が破壊されたことを悼んで、庭園研究家となったのであろう。 (2011.03.30)