幕末・維新の桑名藩シリーズ11
幕末の災害 安政伊賀地震他 |
嘉永7(1854、11月27日に安政元年と改元)年は大変な年であった。3月3日、江戸幕府はアメリカと日米和親条約を結び、開国した。それ以後の国内・外の政治・社会情勢は大変動を遂げるが、安政の大地震といわれる一連の地震が起こり、関東及び関西地方の社会は大きな被害を受けた。
安政の大地震は安政伊賀地震、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震を総括している。中でも安政伊賀地震は桑名地方に大きな影響を与えた。これは嘉永7年6月15日午前2時ころに伊賀北部を震源とし、マグニチュード7.25と推定される地震である。伊賀上野・四日市で震度7〜6、桑名では震度5と推定される。
当時の桑名の模様は「嘉永甲寅地震雑記」(筆者は桑名藩家老・横正遠筆とされるが、横正遠なる人物は不明である)に書かれている。余震も1カ月ほど続いた。城下町・農村部でも空き地に仮小屋を建てて当分は生活した。
被害は城内では櫓が2ヵ所半壊、17ヵ所大破、11ヵ所小破。奥御殿半壊。石垣崩れ2ヵ所など。城下町では全壊1軒、半壊2軒。死亡4人と怪我1人(いずれも四日市で受けた)。農村部では全壊137軒、半壊256軒。死亡26人と怪我17人(いずれも四日市で受けた人も含む)。寺の本堂全壊10カ寺、半壊11カ寺。神社全壊5カ社、半壊4カ社。東海道はところどころ「地割」、小道はところどころ「震下ケ・震割・泥吹」が多数と地盤沈下や液状化現象が見られた。朝明川橋は崩落。木曽川筋(支流とも)堤防3293間、町屋川筋(支流とも)堤防8702間、朝明川筋(支流とも)堤防320間、海岸堤防2790間が被害を受けた。
長島でも城内・城下町でも被害があったが、特に海岸部での被害が大きかった。また四日市は大きな被害であり、火災も発生して一段と被害が拡大された。四日市町での焼死者は68人、怪我死者は87人に達している。四日市の東海道は1週間ほど通行が麻痺した。
今回の地震による余震の恐怖をおさめる為、桑名藩では多度神社へ祈願をして、お札と洗米を受けて、希望する藩士に配っている。
同年11月14日の安政東海地震、翌日の安政南海地震が起きて、津波も発生しているが、桑名地方の被害は不詳である。桑名地方は伊勢湾の奥であるから津波の被害は少なかったと思われる。
一連の地震の被害復旧のため、桑名藩は幕府から5000両を拝借し、安政2年2月に藩士に手当金を支給している。それは最高が家老に金10両、最低は金2分である。但し長屋住い、借家住い、持家を貸している分は半額の支給である。同年7月ころから城内の復旧工事が始まった。
万延元(1860)年5月11日(現在の暦では6月29日)、梅雨前線が刺激されたのであろう、暴風雨となり桑名地方の河川は氾濫し、午後3時ころから高潮が押し寄せた。このため江戸時代を通じて干拓されてきた海岸部の新田は水没し、もとの海に戻ってしまった。桑名藩領では福本新田・福岡新田・大平新田・末広新田・一之新田などである。また長島地先の横満蔵輪中(横満蔵新田、松蔭新田、白鶏新田)では堤防が切れて水に浸かってしまった。木曽岬地先でも川先新田が水没した。
この時には桑名藩の武士屋敷も浸水した。その被害状況は不明だが、5月24日付で手当金支給が発表されている。最高金額は安政の地震と同じで金10両だが、、最低額は金1分である。幕府からの支援はなくて藩独自で出したためか非常に早い対応である。また住居が破損した者には炊き出しも行っている。
この年の米作は桑名藩の勢州分だけで8673石減収となった。前年は減収ゼロ、一昨年の減収は676石であったから、この風水害の損害は如何にも多い。
参考資料
「嘉永甲寅地震雑記」(『日本地震史料』1989年所収)、『四日市市史』(1930年)、『四日市市史』(1999年)、『桑名郡志』(1980年)、「桑名藩御触留」