幕末・維新の桑名藩シリーズ10
幕末桑名藩の財政難(3) |
桑名藩の国元である桑名の町では御内用達が「御内用会所」を組織化されたことは、このシリーズ8で書いたが、各地の商人にも調達金や御用金を命じていた。そして彼らに苗字帯刀を許し、桑名藩の士分に取り立てた。万延元(1860)年の『桑名藩分限帳』(桑名市博物館発行)によれば、それらしい氏名が記録されている。主な氏名を列挙すると
江戸山田彦左エ門手代 沢野四郎兵衛 2人扶持
冨津村庄屋 織本嘉右エ門 2人扶持
大阪御舘入 鴻池 山中善右エ門 25人扶持
同 升屋 岸平右エ門 20人扶持
同 千草屋 平瀬市郎兵衛 20人扶持
同 辰己屋 和田久左エ門 10人扶持
同 天王寺屋 辻 嘉十郎 7人扶持
同 加嶋屋 樋口重郎兵衛 5人扶持
同 笹屋 生駒勘左エ門 5人扶持
同 備前屋 甲谷貞吉 5人扶持
同 明石屋 藤井庄右エ門 銀3枚
四日市 山中伝四郎 15石3人扶持
松坂 恵川弥兵衛 50俵
摂州神戸村 俵屋新之助 3人扶持
江戸正米渡 早川弥惣右エ門 5人扶持
同 柴田芝庵 10人扶持
同 湯浅尭民 2人扶持
同 清川玄道 5人扶持
同 森川五郎右エ門 10人扶持
同 坂倉荘蔵 10人扶持
同 米屋久右エ門 3人扶持
同 永岡儀兵衛 300石25人扶持
同 小出弁之助 15人扶持
同 江戸材木屋 正木丈吉 7人扶持
などである。江戸や大坂の商人が多いことが注目される。なお江戸山田彦左エ門は桑名の豪商であり、江戸店もあった。冨津村とは久松松平家が白川藩時代に幕府から房総海岸の警備を命じられた時に、下総国冨津村(現千葉県冨津市)に陣屋を設けていた関係であろう。
彼らの中で一番多くの知行・扶持を貰っているのは、江戸の永岡儀兵衛で、300石25人扶持である。桑名藩では中の上クラスの知行取りに当たる。彼は天保13(1842)年7月に25人扶持を貰い、嘉永3年から300石の知行を貰っている。桑名藩は彼から多額の借金を借りていることは、このシリーズ6で紹介した通りである。
次に多いのは四日市の山中伝四郎の15石3人扶持である。山中家は海岸部の新田開発を行い、それによって得た収入を桑名藩に土地を担保に貸付けている。慶応3(1867)年末で山中家の桑名藩への貸付残高は1050両であり、明治になってからの返済は無く、明治4年末までの利息は約338両になっている(「山中家文書」)。
ついで多いのは大坂の鴻池で、25人扶持である。鴻池からの借金については、このシリーズ8で紹介した通りである。
なお、各藩とも財政難のため、藩内限り通用の紙幣(藩札)を発行した。桑名藩でも文政13(1830)年に藩札を発行している。うち金1両札には「ナ」の文字が漉かされていた。桑名藩札の発行は大坂の商人・升屋平右エ門が請負った。桑名藩の保証では信用力がなく、升屋の保証の元で通用された。この藩札に使われた紙は名塩紙(現西宮市名塩で作られた紙)が使われた。名塩紙は非常に丈夫で、かつ柔軟性がある紙であって、多くの藩札に使用された。その後も桑名藩札は発行されたが、慶応2年のは粗悪であって、偽札が出回った(西尾市岩瀬文庫所蔵「桑名藩御触留」、桑名貨幣研究会編『桑名藩札考』)。