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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ14
池田屋事件と禁門の変

元治元(1864)年4月11日、上洛中の桑名藩主松平定敬は二条城で将軍徳川家茂から京都所司代に任じられた。京都所司代は譜代大名が任じられるのだが、実兄の会津藩主松平容保が京都守護職に就任していたので、異例ながら容保を助ける意味で、定敬が京都所司代に命じられたのである。京都で異変が起きた場合に会津では応援部隊を呼び寄せるのに1か月近くかかってしまう。これでは緊急事態に間に合わぬのである。桑名なら早ければ連絡に1日、出動に2日ほどで計3日ほどで応援部隊が駆けつけることが出来るのである。

4月19日、京都市中の警備につき、持場が決められて、桑名藩は南北は丸太町から蛸薬師まで、東西は鴨川から御土居際まで。桑名藩の陣屋は鷹ヶ峰(たかがみね)で、市中の出張所は堀川三条通下ル瑞蓮寺と御池通堺町西入ル御所八幡の2か所であった。30人ほどが担当し、昼夜を交代して市中を見回った。合言葉は「鷹か峰」であった。

5月28日に定敬は二条城の北にある所司代屋敷へ移った。
6月5日夜、池田屋事件が起きた。この事件は三条小橋近くの旅篭「池田屋」に長州藩士らが集り、密議を行っているとの情報があり、主として新撰組が池田屋へ踏み込んだ。桑名藩士は外回りを固めたようで、200人が参加し2人が死亡した(加太邦憲「京都所司代中の事情」)らしい。だが、死亡者の氏名など桑名藩での詳しい記録を私は見ていない。この事件をうけて、桑名藩では京都の警備の強化を図るため、7月上旬に援軍を派遣した。それが早速に役立ったのが次の禁門の変である。

 禁門の変は7月19日に起きた。禁門は御所の門の一つだが、普段は開けられず、火急の場合のみに開けられるので、「桑名の焼き蛤」にちなんで蛤御門とも言った。

池田屋事件で弾圧を受けた長州藩は抗議のため、京都へ軍勢を送り、御所を攻撃しようとした。幕府では事前に防禦体制を整え、桑名藩は竹田街道と御所の御台所御門を守衛していた。竹田街道は京都から伏見へ出る道であり、その途中にある、鴨川べりの九条河原で待機していた。

 長州藩の一部が御所に攻め込んで来た。ここで長州藩は天皇に手向かう賊軍となった。これに対して、薩摩・会津・桑名藩は天皇を擁護する官軍となって、防戦した。禁門(蛤御門)での攻防が激しかったが、桑名藩は堺町御門付近で激戦した。堺町御門内の九条家屋敷の北付近で桑名藩士の赤松茂・須藤勝司が斬られて死亡、伊藤繁は鉄砲で打たれて死亡と、3人の犠牲者を出した。負傷者は堺町御門内で3人、蛤御門内で2人、御台所御門前で2人、中立売御門内で1人と計8人であった。

 一方、竹田街道で待機していた桑名藩士は伏見方面で長州藩勢と30分ほど応戦したが、御所の方で煙が上がったので、すぐさま御所へ駆けつけた。しかし戦いはほぼ終っていた。その後に伏見から山崎へ追討に出たが、天王山の長州藩勢は自尽していた。24日には総てが終了して宿舎に引き揚げた。
 この事変の間、松平定敬は京都所司代として、天皇の側近に控えていた。
(参考資料:鎮国守国神社所蔵「魁堂雑記巻1及び巻14、巻15」など)

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