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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ15
第1次長州戦争と天狗党の乱

桑名藩主松平定敬が京都所司代に任じられた元治元(1864)年は4件の大事件が起きました。うち2件は既に述べましたが、あとの2つは第1次長州戦争と天狗党の乱です。

7月の禁門の変に対する処理を求めて、幕府は諸藩の軍勢を連れて長州藩へ出兵しました。桑名藩では多数の軍勢は出さず、監察の付添として、立見鑑三郎や本田龍蔵など16人が参加しました。宿泊費や食費は幕府から出され、さらに1人に金10両の手当と予備金3両が各人に支給された。かれらは10月17日に京都を出て18日に大坂に着きました。ここで軍勢が揃って同月29日に大坂を出発し、山陽道を通り、広島に11月15日に着きました。長州藩では謝罪をしたので、戦闘にはならずに、軍勢は年末までに引上げました。

長州へ目が向いている時に関東から幕府を揺さぶる天狗党の乱が起きました。天狗党は水戸藩を脱走した過激派の兵士らが同年3月27日に筑波山で挙兵し、11月1日に武田耕雲斎を総大将として上洛の途につきました。尊王攘夷を掲げて京都の徳川慶喜に歎願するためでした。彼らは中仙道を上ってきましたたが、幕府はこれを阻止するための防衛線を敷きました。

幕府の要請を受けた桑名藩でも同年11月29日に非常召集を行い、その日の夜に、宮崎伝兵衛隊、牧野平四郎隊、久徳隼人隊が北大手門を出て、から乗船し、翌12月1日朝に大垣に着きました。1日には桑名藩領を防備するため、服部半蔵隊と吉村助市隊が、藩境の七郷と浜の地蔵に大砲を構えました。

29日に鵜沼まで来た天狗党は中仙道の防備が厳しいので、方向を転換し、中仙道をそれて、大雪に悩まされながら、山中の道をたどって越前へ向かいました。桑名隊は大垣から墨俣まで進軍しましたが、天狗党の方向転換を受けて大垣へ戻りました。12月7日京都へ向けて大垣発、今須泊り。8日は雪降りの中、越川泊り。ここで越前へ向かえとの連絡がありました。9日は米原泊り。10日は積雪1尺ほどの米原を出ると雪は3尺ほどの深さになりました。長浜泊り。11日は木之本泊り。12日は中之郷泊り。13日小谷村泊り。14日は滞在。15日積雪6尺ほどの刀根坂を越えるも馬も駕篭も通れずに難儀して、やっと敦賀泊り。ここで京都から来た桑名の別隊と合流しました。

京都からの別隊は松平左二郎隊と久徳小兵衛隊でした。合流した桑名藩隊は16日に舞坂泊り。17日に獺河内村に泊りました。ここで天狗党の一行が降伏した情報が伝えられました。23日まで滞陣。24日は天狗党の一味を護衛して敦賀まで来ました。25日は桑名藩隊の京都組と桑名組は分かれて、京都及び桑名へ向かいました。桑名組は梁ヶ瀬(やながせ)を経て27日大垣に到着。28日暁に大垣から乗船し、桑名の川口に到着。渡し場横の脇本陣駿河屋で休息してから、南大手門より御殿へ行き、蛤の吸物とお酒を振舞われました。吸物とお酒の振舞はしばしばありますが、今回はとくに「蛤の」と断ってあるから、久しぶりに桑名へ帰ったことの実感を味わったことでしょう。

京都組は今津・木戸・大津に泊り、28日桑名藩の京都堀川屋敷に到着しました。ここでお酒と御肴(おさかな)が出されて労(いた)われました。

この二つの事件とも戦闘がなかったので、桑名藩でも戦死者や負傷者も出さずに済みました。

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