幕末・維新の桑名藩シリーズ17
徳川家茂の上洛 |
東海道の「七里の渡し」は熱田と桑名の間を船で渡りましたが、ここは木曽・長良・揖斐の上流から砂が流れ込んできますので、常に砂浚えをしなくてはなりませんでした。しかし、幕末になると幕府の力も衰えてきて、砂浚えが不十分になっていました。また「七里の渡し」は天候によって船が出なくて急に予定を変更することもありましたから、大行列(だいぎょうれつ)の場合は安全を見込んで、熱田から陸の佐屋街道を通ることが多かったのです。そして、また佐屋湊は浅くなっているので、下流の川平が湊として使われようになっていました。
将軍上洛の先発隊として文久2(1861)年12月15日に徳川慶喜は江戸を出発し、12月25日に佐屋から川平を通って桑名へ来ました。将軍の徳川家茂は文久3年2月13日に江戸を出発して、東海道を京都へ上りました。寛永11(1634)年以来238年ぶりの将軍上洛です。
同月15日ころから、連日にわたり荷物の運搬や護衛の人々の行列が続きました。家茂は同月28日には熱田を出発し、岩塚宿・神守宿で休憩して、佐屋宿で昼休みとなり、午後は1里ほど下流の川平まで歩き、そこから船に乗って、夕方に桑名へ着きました。当日だけで使用された船は1101隻で、川の中は船で溢れていたことでしょう。将軍や側近の役人たちには尾張藩から特別な船が提供されましたが、その他の船は各地からチャーターされました。
桑名城下では川口の船着場、三崎御門、京町御門、鍛冶町御門、七曲御門や桑名藩領境の羽津村などに武士が詰めて厳重な警備体制がとられました。
桑名では寺町の本統寺(通称ごぼさん)に泊りました。普通は各宿場で本陣宿に泊るのですが、桑名最大の本陣宿である大塚本陣は安政の大地震で痛んでいたようです。老中の水野和泉守は太一丸の山田屋敷に、老中の板倉周防守は大塚本陣に、若年寄の田沼玄蕃頭は丹羽本陣に、若年寄の稲葉兵部少輔は脇本陣駿河屋に泊りました。この日に何人が桑名で泊ったか不明ですが、前後の日を合わせて2000人ほどとも言われます。それだけの大人数が泊るとなると、寺や一般の民家も総動員だったと思われますし、食事や蒲団、草鞋の準備も大変だったことでしょう。
29日朝は土砂降りとなりましたが、桑名を出発しました。警備の武士たちは麻上下を着て、雨に濡れながら土下座をして見送りました。沿道の家では二階の戸を締め切り、紙で封をしました。人々は家の中で土下座して見送りました。家並みのないところでは、街道から少し離れたところで、子どもを前に、大人を後ろにして土下座して見送りました。途中で小向村の庄屋宅と東富田村で休憩し、昼過ぎに四日市宿に到着して宿泊しました。
3月1日には殿を務める水戸藩主が総勢3000人を連れて、桑名に泊りました。翌日は朝から晩まで通行の行列は切れ目なく続きました。
参考文献 『続徳川実記』第四編
『佐屋町史』資料編一
「桑名藩御触留」(西尾市立岩瀬文庫所蔵)
「豊秋雑筆」(鎮国守国神社所蔵)