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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ16
硝石製造と鉄砲場

硝石は硝酸カリウムで、火薬の原料になります。桑名藩でも早くから硝石を貯蔵しておく蔵があったようです。明治初年に書かれた『桑名郡志』には「塩硝蔵は西方村にある。昔は猟師町の辺にあった。元禄の火災後に西方村の移した」と書いてあって、硝石は大砲を撃つための火薬なので危険物であり、人家を離れた場所に置かれました。江戸時代中頃に書かれた『久波奈名所図会』には「焔?蔵―走井山の北にあり、桑名御城主軍用の焔?蔵なり」とあります。同じ蔵と思われます。西方村のどの辺りにあったかは不明ですが、『桑名日記』の天保14(1843)年3月21日に、日記の筆者である渡部平太夫は孫たちを連れて、西方を回っていますが、走井山から焔硝蔵前を通り、ぶらぶら登り、西方へ出ていますから、西方村の中心よりも走井山に近いところだったと思われます。

幕末になり、各地で戦乱が起きて火薬の需要が高まります。文久(1861−64)ころから桑名藩では硝石の製造を始めます。その製造は雨が当たらない古い家屋の床下の土を水に溶かして、これに灰汁を加えて、その上澄み液を煮詰めて作ります。桑名藩で焔硝係りが設けられたのは、いつごろから判りませんが、安政2(1855)年4月の「無格分限帳」には「御鉄砲奉行支配 焔硝調合方 6石2人 中野得左衛門とあります。

 桑名藩では文久2(1862)年9月には硝石製造用の土を探すように各村を調べました。翌年には硝石方に3人を命じています。木灰を確保するために、木灰の領外持ち出しを禁止し、領内の木灰を藩が買い上げています。硝石の製造場所は不詳ですが、小向村内と桑名伝馬町の願証寺跡と推測されています。願証寺跡は1万坪余もあって大きな硝石製造所があったようです。慶応2(1866)年には製造規模を一段と拡大し、藁灰も集めています。

 鉄砲の射撃場は『桑名日記』によれば弘化4(1847)年7月10日に新屋敷近くの鉄砲稽古場で火災が発生しています。『桑名郡志』では鉄砲稽古所が柳原にありました。柳原は新屋敷の近くですから、同じ場所を指していると思われます。

現在、西方の配水場の下の竹薮の中に少しばかりの広場があり、「旧桑名藩鉄砲場の跡」の石碑が立っています。碑の右側面には「為先祖代々菩提」、左側面には「昭和二十七年五月吉日 水谷儀 建之」とあります。傍らに墓石が一基あり、正面に南無阿弥陀仏と三人の戒名が書いてあり、右側面には慶応二寅年十二月九日 明治六酉年十月廿二日 明治元辰年□月六日」、左側面に「水谷和□□」とあります。この土地は西方131番地の水谷美吉さんの所有地であり、水谷家先祖の墓地であると、美吉さんから聞きました。また西方の自治会長さんから聞いた話では、付近の山を「鉄砲山」と呼んでいたそうです。近くには「桜の馬場」があり、馬の調練をしていたそうです。

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