幕末・維新の桑名藩シリーズ19
昌平坂学問所の入寮生たち |
昌平坂学問所とは江戸幕府が開設した学校で、いわば国立大学に相当する学校です。現在の東京大学の前身に当たります。原則として幕府に仕える武士の子弟が学ぶところですが、この学問所の中に「書生寮」が享和年間(1801〜4)に開設されて、各藩士や一般人でも優秀な人が学ぶことが許されました。桑名藩でも藩士が入寮していますが、文久3(1863)年10月に、牛込重太郎(24歳)と加藤得蔵(32歳)、文久4年1月に立見鑑三郎(22歳)、元治2(1865)年4月に栗本州介(21歳)、慶応元(1865)年10月に生駒伝之丞(23歳)が入寮しています。年齢は入寮当時の数え年です。このうち、立見鑑三郎は明治政府で陸軍大将と男爵を与えられた有名人なので、別の機会に書きます。
牛込重太郎については不明ですが、父は牛込勝之丞で100石取りだったと思われます。文久元年の桑名藩名簿である分限帳には無役で牛込金太郎が居ります。名前が一字違いますが書き間違いかと思われます。明治3(1870)年の桑名藩の名簿では桑名藩の学校である文学館助教として「牛込重太郎」の名が見えます。すなわち学校の先生になっていますから学問に優れていた人物のようです。その後のことは判りません。
加藤得蔵は泰得とも言い、毅堂と号しています。文久元年の桑名藩分限帳では「馬廻り10石3人扶持」です。十念寺に墓があり、履歴を書いた石碑が建っています。それによりますと江戸へ元治2(1865)年に遊学しており、最初に述べた「書生寮」の名簿と2年違っています、明治維新後は牛込と同じく明治3(1870)年の桑名藩の名簿では文学館助教になっています。
桑名藩が廃止されたため、5年に藩の学校も廃止されましたが、その伝統を引き継ぐ学校として私立の励精義塾を開設し、教頭となりました。公立の立教学校の教員にもなりました。20年4月に桑名郡高等小学校が設立されるや、その校長に就任しています。しかし同年8月に病死しました。明治初期の桑名での教育界の基礎を固めた先生です。
栗本州介については不詳です。文久元年の桑名藩分限帳ではが分領地の「柏崎代官で12石3人扶持」として栗本作介がおりますが、同一人物なのか不明です。年齢からみて作介の子どもかも知れません。明治3年の名簿には出てきません。
生駒伝之丞が入寮したのは慶応元年10月ですが、その月に書生寮は休止となっているので、伝之丞は殆ど学んでいません。彼は戊辰戦争の際に大活躍する人物ですが、その前後のことが分かりません。明治2年10月に出された「桑名藩士従前禄高帳」によりますと、「220石取りの生駒久兵衛」と「30俵3人扶持の生駒伝之丞」が記されています。桑名藩では生駒家は1軒しかありませんから、久兵衛が親で、伝之丞が息子かと思います。
桑名藩家老の酒井孫八郎が書いた『酒井孫八郎日記』には孫八郎の手下として、伝之丞はしばしば登場します。慶応4年即ち明治元年1月、桑名城明け渡しのころには伝之丞は孫八郎と共に行動しているようですが、8月2日に伝之丞は京都から帰っています。9月3日にも伝之丞は京都から帰っていますから、毎月のように上洛しています。10月29日には東京から帰ってきています。色々と情報収集や下準備のため東奔西走しています。
11月4日、孫八郎と共に伝之丞は桑名を発って、東京・青森を経て12月11日に函館に着きました。翌年の明治2年1月1日に孫八郎と伝之丞は前桑名藩主の松平定敬に会います。定敬が函館から脱出する下準備として伝之丞だけが2月15日に函館を出て、東京へ行っています。5月21日、定敬は東京に出て来て、尾張藩邸に軟禁されますが、孫八郎と伝之丞が控えの間で世話をしています。桑名藩の罪は8月17日に許され、その情報を桑名へ知らせるために、伝之丞は18日に東京を発っています。『酒井孫八郎日記』はここで終わっているので、その後の伝之丞のことは不詳ですが、明治3(1870)年の桑名藩の名簿では「監察」となっています。
参考文献『書生寮姓名簿』(東京都立中央図書館所蔵)
『酒井孫八郎日記』
『桑名市史・本編』
『柏崎市史資料集 近世1上』
「桑名藩分限帳」
「加藤毅堂泰得顕彰碑」(十念寺)