幕末・維新の桑名藩シリーズ21
幕末の酒井孫八郎
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酒井孫八郎は桑名藩の家老で、若いながら幕末・維新でもっとも活躍する人物です。維新のときのことは知られていることが多いのですが、幕末の彼については、余り知られていません。少ない資料ですが、紹介してみます。
孫八郎は弘化2(1845)年11月17日、桑名吉之丸の服部家で生まれました。父は服部半蔵正綏です。実兄の正義は弘化2年9月29日生れとされています。僅かに2か月足らずの違いですから、孫八郎は腹違いの弟と思われます。
酒井朝益が安政5(1858)年8月18日に34歳で亡くなりますが、跡継ぎの子どもが居なかったので、朝益の妻(吉村氏)の妹・幸を養女としました。また服部家から孫八郎を養子として迎えました。同年11月22日に孫八郎は朝益の跡目相続を許され、500石を桑名藩主から下され、御奏者番格組外の役を与えられました。まだ14歳ですから学校に通っており、「格」として実際の役には就いていません。
安政7年1月24日に元服し、文久元(1861)年2月19日に幸と結婚しました。同2年の1月15日に御奏者番となって「格」でなく、正式に役目に就きました。同年7月20日に御番頭組頭になり、1つの組を束ねる立場に昇進しました。
その当時、桑名藩は京都警備に就いていましたので、同年8月5日に孫八郎は京都警備を命じられ、9月8日に桑名を出発し、11日に京都へ着いています。文久3年には桑名藩主・松平定敬や将軍・徳川家茂が上京してきたので、藩主の身辺警備に当たっています。そして同年6月3日、松平定敬が御所に参内した時に付き従って参内し、孝明天皇に拝謁しています。同月16日、京都警備の任務を解かれ、同月23日京都を出発して、26日に桑名に着いています。
桑名では御奉行に役職替えとなり、同年(文久3年)江戸勤務を命じられ、9月18日に桑名を出発し、28日に江戸へ着いています。翌元治元(1864)年、松平定敬は京都所司代となりますが、同年7月に京都で禁門の変が起きて、桑名からも応援部隊が駆けつけるので、桑名の警備が手薄となるから、江戸勤務を解かれて、桑名へ戻るようにと話もありましたが、禁門の変も大きくならずにすみましたので、そのまま江戸勤務を続けました。しかし、その後も天狗党の乱など関西方面の治安が不安になってきたので、江戸勤務を解かれて、同年11月10日に江戸を出発して、20日に桑名に戻っています。
慶応元(1865)年9月20日、月番職、即ち家老に就任しています。酒井家が続けてきた役職です。実兄の服部半蔵正義も同じく月番職になっており、兄弟ともに21歳の若さで藩の中軸を担う重要な役に就任しました。同年11月晦日に桑名を出発し、12月2日に京都に着いていします。
翌年の慶応2年2月18日に京都を出発して、21日に桑名へ着いていますが、同年4月11日には桑名を出発して、13日に京都へ着いています。同年7月5日に妻の幸が桑名で亡くなっていますが、孫八郎は桑名へ帰ることも出来ませんでした。同年12月7日に京都を出発して、9日に桑名へ着いています。東奔西走の忙しい日々です。同年12月24日に桑名藩の軍制改革の役を与えられます。
慶応3年4月10日、大船御用係りになっています。同月14日には、豊橋藩士・酒井直之進の妹と再婚しました。豊橋藩の酒井家は酒井家初代の綱重の長兄の家系で本家です。桑名藩酒井家は次兄の家系であって分家に当ります。
同年8月14日、桑名藩の藩制改革が行われ、月番職が廃止され、軍事総宰に服部半蔵正義、政事総宰に吉村権左衛門宣範・沢采女、勝手総宰に酒井孫八郎が就任しました。明治維新の激動をこの4人で対処するのですが、服部と酒井の若い兄弟コンビが実質的に桑名藩をリードしました。