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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ23
慶応4年正月上旬の桑名

桑名藩家老の酒井孫八郎は慶応4(1868)年正月1日から日記を書き残しています。元旦は朝は雪がちらつきましたが、日中は晴れて穏やかな日和となりました。孫八郎は定例の如く祝いの食事を済ませてから、お城に行きました。藩主の松平定敬が大阪に居るので、孫八郎が代理となって藩主の先祖を祭るお宮に参拝しました。藩主一家に新年の挨拶に伺いますが、非常の時のため、お会いできず、城を出てから親類を数軒回って挨拶をして帰りました。まずは平穏な1日でした。この時に桑名藩の総宰職にあった家老は4人いましたが、2人は藩主の松平定敬と共に大阪に居り、孫八郎と沢采女の2人が桑名におりました。沢の年齢は不詳ですが、孫八郎は数え歳24歳でした。そして孫八郎は殆ど一人で難局に立ち向かうことになりました。

2日、孫八郎は平服で平常通りに城で勤務して帰宅しています。大阪に居た桑名藩の軍隊は大阪を出て、京都へ向かいましたが、その知らせは桑名へは未だ届いてきません。幕府の軍隊の馬が7,80匹も春日神社の境内で休息していました。

3日、孫八郎は気分が少しすぐれず欠勤しましたが、午後に急用のため呼び出され、夕方に帰宅。前日に大阪を発った連絡員が大阪の軍隊が京都へ向かった情報をもたらしました。そのため、桑名からの応援部隊が夕方に出発しました。幕府の馬は400匹ほどに増えていましたが、急いで大阪へ向けて出発して行きました。川口の七里の渡し場は厳重な警戒体制が敷かれ、薩摩の武士を取り押さえるように触れが出されました。

4日、孫八郎が定刻に弁当を持参して出勤して夜遅くに帰宅。3日に大阪を出た連絡員が到着しましたが、まだ委しいことは判りません。春日神社では今年は「武運長久開運出世」のお札(ふだ)がよく売れました。

孫八郎は5日もいつもの様に弁当持参で出勤。非常事態となり、その対応策が次々と触れ出されました。緊急の場合は、鐘で合図するので、急いで城へ集ること。各自が持っている銃と弾薬を届けること、などです。

孫八郎は6日も同様に弁当を持参で出勤しましたが、情勢が緊迫して帰宅は翌日の午前2時ころになりました。各自に肩印の布を配るので取りにくるようにと触れ出されます。いよいよ臨戦態勢です。

7日、孫八郎は午前2時ころに帰宅して、定刻に出勤していますから、少し仮眠した程度です。情報は次から次へ入ってきます。そして今夜も徹夜で仕事をし、翌朝の夜明けごろに帰宅しました。

8日未明は雪、のち晴れ。孫八郎は夜明けごろ帰宅し、定刻に出勤しています。とても寝る間もありません。前日に大阪を出発した連絡が届き、桑名藩・会津藩をはじめ幕府軍は京都郊外で敗けて、総崩れとなった情報が入ってきて、桑名は大混乱となりました。

9日も孫八郎は夜明けころに帰宅し、また出勤。2日連続しての徹夜です。桑名軍が負けた情報は桑名の町内にも広がり、桑名が攻められることを恐れて、町の人も横になって眠られない状況です。中には町から逃げ出す人も現れました。

10日、孫八郎は昨夜から帰宅できず、とうとう3日連続しての徹夜です。藩主の松平定敬が徳川慶喜らと船に乗って大阪を脱出して江戸へ向かったとの情報が届きました。対応策について城内では議論が沸騰しました。桑名城を捨てて、江戸へ集り幕府軍と共に戦うという強硬派に対して、相手方には天皇の軍隊である印として錦の御旗を持っているので、天皇には抵抗できないから、桑名城を明け渡して降伏しようという恭順派に分かれて、議論は平行線のままで結論がまとまりません

そのため藩主家の祖先を祭る鎮国守国神社で「おみくじ」を引いて結論を出すことになりました。孫八郎が代表して「おみくじ」を引いたところ、「江戸へ集り戦うべし」との結論に達しました。ここで前の藩主の息子である万之助が出席して、「別れの酒」を酌み交わして、各自がそれぞれ江戸へ向かうことになりました。

 参考文献 『酒井孫八郎日記』
      「桑名藩御触留」(岩瀬文庫所蔵)
      「公私用留記」(桑名市博物館所蔵)

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