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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ24
桑名開城と珠光院貞姫

前回に述べましたように、慶応4(1868)正月10日、鎮国守国神社の「おみくじ」を引いて、「江戸へ集まり戦うべし」との結論となりました。これに反対する下級武士たちが集まり、協議しました。

戦争となれば、第一線に出て殺されるのは下級武士なのです。まさに命がけです。それに相手は天皇の軍隊です。薩摩・長州は憎いけれど、天皇に手向かうことはできません。しかし、神社の「おみくじ」での結論を覆すのは容易ではありません。知恵を絞った結果、前藩主夫人の珠光院貞姫に訴え出ました。この時に藩主の松平定敬は不在で、藩主家として桑名城内に居たのは、珠光院と子供たちでした。藩主不在なので、前藩主夫人の珠光院が松平家の最高の地位にあったと言えましょう。

11日、珠光院が出席しての御前会議が開かれて、珠光院の意向で結論が覆りました。即ち、戦わずして桑名城を開城することになったのです。しかし「江戸へ集まり戦う」ことを目指した人たちは、あくまでも戦うこと主張し、藩の中は混乱を極めました。中には桑名を立ち退いて江戸へ向かう人もいました。このように藩内を混乱に陥れた責任をとって、山本主馬と小森九郎右衛門は城内で切腹してしまいました。

珠光院については、本シリーズ1(2010年11月)に書きましたが、信州松代藩・真田家の娘で、桑名藩主松平定猷と結婚した人です。実父の真田幸貫は佐久間象山を登用したような改革派の人でした。珠光院も実父の影響を受けて、世界の情勢を知り、今までの幕府の体制が変わることを予想していたのでしょう。

幕末からの薩摩・長州は欺瞞に満ちた方法で幕府を倒してきたのです。こんな薩摩・長州が中心となった新政府に彼女は馴染めませんでした。しかし、無用な戦いで、無駄な命をなくすことは、女性として耐え難く、「戦わずして開城」することを彼女が決断したと思われます。

明治4(1871)年、廃藩置県が行われ、元の藩主家は東京に住むことが命じられました。しかし珠光院は病気と称して桑名から離れませんでした。明治9年11月12日に桑名で逝去し、松平家の菩提寺である照源寺に葬られました。今も照源寺の松平家墓地に彼女の墓はあります。

 彼女は松代で生まれ、結婚生活は江戸で暮らし、幕末に桑名へ移ってきたのです。本来的に桑名という土地には馴染みが薄いのですが、最後まで東京へ行かず、桑名で過ごしたのは何故でしょうか。薩摩・長州が作り上げた新政府に対するレジスタンスだと、私は考えています。

珠光院の持ち物は、桑名開城の際に持ち出されて、船馬町の佐藤孫右衛門家に預けられていました。彼女が逝去した1カ月ほど後の明治9年12月に起きた伊勢暴動で、佐藤家は焼き討ちに逢って、彼女の持ち物も焼失してしまったといわれます。

それから40年ほど経った昭和4(1929)年8月21日付け『大阪朝日新聞』に、佐藤家に預けられていた、珠光院の持ち物が紹介されています。その中には六文銭紋付の箪笥をはじめ箪笥が19棹、長持53棹、その中には豪華な衣装が沢山。かんざし22個、銀タバコ入れと銀キセル15組、金銀蒔絵のタバコ盆15個、琴11面、三味線15挺、掛け軸90幅、望遠鏡などなど。それ加えてお付の女性も多くの衣装もありました。余りにも多すぎて、どこまで信頼性のある資料かと疑問に思われます。


参考資料  『酒井孫八郎日記』 
      「魁堂雑記」(鎮国守国神社所蔵)
      「公文録」
      『大阪朝日新聞』 

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