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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ26
大坂からの脱出

桑名藩主の松平定敬と桑名藩軍は大坂で、慶応4(1868)年の正月元旦を迎えました。2日に幕府軍と会津・桑名藩軍は京都へ向かい、3日には京都郊外の鳥羽・伏見で戦いましたが、負けてしまいました。敗北の知らせが大坂城にもたらせられると、6日夜に将軍の徳川慶喜はひそかに大坂城を脱出して、天保山沖に停泊していた幕府の軍艦である開陽丸に乗り込みました。会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬、備中松山藩主の板倉勝静らも遅れて天満橋から小舟に乗って、開陽丸に乗り込みました。容保・定敬・勝静はともにお供を1人も連れずに、まったく秘密裡の行動です。

8日に天保山沖を出帆して、11日朝には品川沖に到着しました。鳥羽・伏見での敗戦の情報はまだ江戸城には届いていなかったようで、急な出来事で、城内は大変な動揺です。容保らに大坂での様子を聞くも、ショックで青ざめた顔で、何も話せない様子でした。

一方、鳥羽・伏見で戦った桑名藩軍は敗北して、6日の夜には大坂に戻りました。7日朝になっても前日夜に将軍らが、ひそかに大坂城を脱出して、船に乗って江戸へ向かったことが判明しました。残された軍勢は動揺して総崩れとなり、バラバラになってしまいました。

桑名藩軍の中にはすぐに桑名へ帰った人もいましたが、京都・奈良方面は新政府軍に抑えられているため、桑名藩軍の大勢は紀伊半島を回って桑名へ戻ることになり、とりあえず和歌山へ向かいました。和歌山城は徳川御三家の一つでしたが、新政府に味方しているため、郊外の加太から船を雇い、大崎(下津町)から山路を歩き、湯浅から船で由良へ、さらに陸路で12日に島村(御坊市)へ着いて、2日間ほど滞在しました。14日昼ごろに芳養(田辺市)から船に乗り、15日昼頃には紀伊半島の南端の串本に着きました。

ここで一行は2組に別れたようです。1組は大きな船に乗って、志摩半島の国崎に到着しましたが、風向きが悪くて大船は動けなく、暫く滞在しました。一部は24日に小舟に乗って、桑名を目指しましたが、白子沖で風波に流されて知多半島に漂着しました。26日夜に桑名の浜の地蔵まで行きましたが、桑名藩は23日に新政府軍に降伏した情報を知り、桑名へ上陸せずに、知多半島の横須賀へ上陸して、陸路を江戸へ向かいました。

国崎を遅れて出発した小舟が三河山下へ到着し、ここで桑名の情勢を知って、以後は各自の判断で行動するように指示され、江戸へ向いました。

串本で別れた1組は小舟を乗り継ぎ、紀伊半島の浦々に泊りながら22日に波切、23日に石鏡、24日に伊勢の神社(かみやしろ)に到着しました。ここで桑名が降伏している情報を得て、桑名へ帰るわけにいかなくなりました。桑名へ帰り家族とも会えることを楽しみしていたので、非常に落胆しました。27日に伊勢湾を横切り、三河吉田(現在の豊橋)に到着しました。ここから江戸へ向かうことになりました。多人数で行動することは危険なので、ここからは「思い思いに勝手次第に」江戸へ行くことになりました。

参考文献 『続徳川実記』第5編
「魁堂雑記」13巻および14巻(鎮国守国神社所蔵)
「艱難實録」(個人蔵・横浜開港資料館寄託)

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