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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ27
江戸からの脱出

慶応4(1868)年の正月11日に桑名藩主・松平定敬は江戸に帰り着き、部下の藩士たちも追々江戸に着いたことを前号で書きました。定敬は将軍・徳川慶喜に「戦う」ように説きましたが、聞き入れられませんでした。桑名藩の武士たちは約300人ほどが江戸に集まってきました。定敬は一橋邸に暫く居ましたが、慶喜が寛永寺に入り、謹慎しましたので、定敬も2月27日に桑名藩の菩提寺である深川の霊巌寺に入り、謹慎しました。しかし、新政府軍が江戸へ攻めてきましたので、定敬は江戸を離れるように勧められました。兄の松平容保は国元の会津へ帰りましたが、桑名はすでに降伏しており、定敬は桑名へ帰るわけにもいかず、桑名藩の分領地である、越後柏崎へ行くことにしました

定敬は3月7日に築地の桑名藩下屋敷(浴恩園)で一泊して、8日に浴恩園の水門から小舟に乗って品川沖まで出て、そこからさらに横浜へ出ました。16日に横浜でプロシャ船に乗りました。この船は越後長岡藩がチャーターした船で長岡藩士らと共に、桑名藩からは久徳隼人ら約100人あまりが同行しました。はるばると津軽海峡を越えて23日に新潟へ着きました。あとは陸路を通り、同月30日に柏崎に着いて定敬は勝願寺に入りました。

江戸に集結していた桑名藩士たちの一部は定敬と共に船で越後へ向かいましたが、残りの藩士たちは幾つかのグループに分かれました。陸路を直ちに柏崎へ向かったグループは3月23日から24日にかけて柏崎に着いています。総宰職である服部半蔵、吉村権左衛門、沢采女ら穏健派一行は4月3日に寺泊で宿泊し、4日夕方に柏崎に着いています。

過激派のグループ80人ほどは、江戸城を守備しようと暫くは江戸に止まり、桑名藩の女子や子供を批難させ、3月11日に八丁堀の上屋敷は封印しておき、築地の下屋敷浴恩園に滞在しました。この浴恩園は3月8日に桑名藩出入りの商人である茅場町の永岡儀兵衛に2万両で売却していましたが、そのまま桑名藩兵が滞在したのです。しかし4月11 日新政府軍が江戸城に入ったりたので、浴恩園に止まることが困難となってきました。年月不詳ですが、浴恩園の庭にある池の魚を肴にして、酒を大いに飲み、その夜に浴恩園を出ました。その後、旧幕府軍の軍隊の属して日光を目指し、途中で宇都宮城を一度は取り返しました。日光を経て会津に行く途中で、柏崎からの急ぎの知らせをうけました。そのため立見鑑三郎らの幹部は昼夜兼行で、閏4月9日に柏崎に着きました。残された一行が柏崎に着いたのは閏4月12日でした。

江戸に居た一部は旧幕府軍の彰義隊に属して、5月19日の上野の戦いに参戦しましたが、敗北しました。それぞれが別々になって、一部は会津を目指しましたが、遠藤利貞は敗北後は偽名を名乗って江戸で半年ばかり隠れたのち、11月28日ころ仲間と共に桑名へ戻りました。その後の遠藤は、外国から取り入れられた数学に反発し、日本本来の算数である和算の研究に没頭し、明治29(1896)年に『大日本数学史』を完成させました。

彼は73歳で亡くなるまで、私立学校17校、官公立学校7校に勤めるなど、決まった就職先に恵まれず、苦しい生活を送りました。

参考文献 「魁堂雑記」3巻、13巻、17巻(鎮国守国神社所蔵)
  田川要「明治維新前後の記録」(個人蔵)
  「海軍省公文備考」(国立公文書館所蔵)
  「柏崎町会所御用留」(『柏崎市史資料集 近世編5』所収)
  「中将様御着人数姓名附」(『柏崎市史資料集 近現代編1』所収)

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