幕末・維新の桑名藩シリーズ35
「占領下の桑名藩士」 |
桑名藩は開城いらい、新政府軍の占領下におかれ、尾張藩と津藩とによって管理された。何事も尾張・津藩からの指示に従ったのである。その間は尾張・津藩から食事を提供されたと思われるが、家族の生活費はどうなっていただろう。それを示す資料が見たらない。慶応4(1868=明治元)年閏4月に殆どの藩士は自宅へ戻り、自宅で謹慎した。以後の生活費はどうなのだろう。
「桑名藩御触留」や「酒井孫八郎日記」に藩士に与えられた給与のことが書かれている。まず6月16日の「お触れ」では7月分の支給について、仕事もないし、支払うべき米も差し支えているが、藩士の生活もあるので、食費分だけが支給された。なお従来は4か月ごとに支給していたが、今回から1か月ごとにする。別に大豆は希望者に払い下げしていたが、今回も身分に応じて払い下げられた。大豆は馬の餌や味噌を作るためである。7月11日に支給が開始されたが、前借りはできないとされた。
米とは別に金が身分に応じて支給された。従来は、いずれにしても一家のうち親子で勤めておれば、別々に2人分支給されていたが、今後は親の分だけで、子どもには支給されない。
食費分とは具体的に何ほどになるのか不詳だが、食費以外の生活費もかかるのであるから、生活は苦しかった。そのため、占領軍の尾張藩に生活困難を訴えていたが、9月には 総額で1万俵が渡されたので、特別のボーナスとして身分に応じて、最高の家老クラスで玄米25俵、最低で玄米5俵半が支給された。藩主の家族には1年分として米500石が渡され、1日に1人に米2人扶持(1人扶持とは1人1日玄米5合づつの割合)が支給された。
10月から「人別扶持」が実施された。これは8歳以上の男子に1人1日玄米5合、同じく女子に4合、7歳以下の男女に3合づつの支給となった。身分の差別なく、家族の人数分に応じての支給だった。別に身分に応じて金が支給された。
12月からは支給額が8歳以上の男子で玄米1升などそれぞれ倍額になった。しかし明治2年7月には藩の米蔵の米が少なくなり、新政府へ頼んでいるが、返答がない。そのため、支給を半分に減らして、元の支給額にしている。
最低限の生活費は支給されているけれど、自宅での謹慎生活で外出もままならない生活であった。何もすることがない生活も飽きがきて、乱れた生活をする者も出てきた。城郭内の堀で魚を釣るのは禁止されているのに、自分で舟に乗って、魚を取る者が出てきた。
見廻りの役人は勿論、その他の役人も見つけ次第に、名前を問い糺すので心得ておくようにと、明治元年10月15日に「お触れ」が出されている。
11月3日の「お触れ」では町や村にみだりに出かける者が居るので注意している。中には夜に提灯を持って出かけ、他藩の者に出会うと、喧嘩を吹っかける者も居る。また酒に酔って道路を歩いたり、田畑を荒らしたり、勝手に木材を切り倒したりして、百姓に迷惑をかける者も居る。女性も打ち揃って勝手に出歩く者も居る。恭順謹慎しておかねばならないのに、大変な心得違いである。桑名藩の存亡にも影響を及ぼすことになるから、厳重な注意を与えられている。
しかし、「お触れ」はなかなか守られなかったようだ。11月23日暁、宮通の古金屋から出火し、20軒程が焼けた。藩士のうち火事場へ見物に出かけ、その上、消火の指揮したものが居た。藩士仲間ならお互いに助け合うのは当然であるが、民家のことに一般の藩士が出かけるのは平常の時でも、禁止されている。ましてや謹慎中なので、遠慮するようにと通達が出されている。
翌年の明治2年1月22日の「お触れ」では、城内の松が切り倒されているのが見つかっているので、今後は日々の見廻りを強化し現場を見つけ次第、取り押さえ、場合によっては鉄砲を発射するかも知れないと、警告している。
以上のような占領状態は明治2年8月に桑名藩の再興が認められ、占領を解かれるまで続いたのである。
参考文献 「桑名藩御触留」(岩瀬文庫所蔵)
「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』第4巻所収)
「魁堂雑記」3巻(鎮国守国神社所蔵)
田川要「明治維新前後の記録」(個人蔵)