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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ34
「東海道の通行」

明治元(1868)年の明治天皇通行については前回に書いたが、天皇の通行前には大軍が桑名を通過している。東海道筋の福江町に住んでいる町人の角屋・稲川吉兵衛が書いた「豊秋雑筆」には福江町を通る大きな行列を記録している。まず明治天皇の東京行(下り)を控えて、大軍が次々と下っているが、9月に入ってからでは、

 慶応4年 9月 5日 五辻殿道中検分、御供大勢下り
            天皇の御輿が通るのに、釘貫御門、鍛冶町御門などは高さが差し支えるので、1尺5寸ほど道路面を掘り下げさせている。
  明治元年 9月 8日 芸州の大軍下り(この日に明治と改元)
       9月12日 備前侯大軍約1000人余下り
       9月13日 久留米藩約1000人余下り
       9月15日 大洲藩大勢下り
       9月25日 天皇の通行

 次は天皇が京都へ帰る(上り)ので、10月末から大軍が次々と上っているが、12月に入ってからでも、
  明治元年12月 6日 朝、勅使四条殿上り 薩摩・柳川藩警備
             昼、備前侯大軍上り
      12月 9日 因州大軍・鍋島侯大軍上り
      12月10日 小倉藩大軍上り
      12月11日 久留米藩大軍上り
      12月12日 勅使五辻殿上り 鍋島侯・久留米侯警備
      12月13日 鍋島侯上り、 醍醐殿・五条殿・沢殿上り
      12月15日 薩摩藩大軍上り、 正親町三条殿下り
      12月16日 広幡殿上り
      12月17日 柳川侯・鍋島侯大軍上り
      12月19日 明治天皇上り

 これら大軍の行列は笛や太鼓を鳴らし、勇ましく行進し、付近の人たちを驚かした。桑名宿では大軍を受け入れ、船・人足・馬の提供、宿舎の手配をしているのである。そもそも江戸時代の東海道宿駅制度は、江戸幕府が定めた制度である。江戸から京都・大坂までに宿駅を定め、各宿駅では人足と馬を提供する制度である。人足と馬を提供するために各宿駅では問屋役の元に伝馬年寄などの役人が設けられ、桑名や宮(熱田)などの渡船場では問屋役の元に舟年寄が置かれた。この役人はその土地の民間人が幕府から任じられた。その土地の領主の管理でなく、幕府の道中奉行の管理であった。いわば国営の事業であった。政権が明治新政府に移って宿駅制度はどう変更されたのだろうか。

新政府は慶応4(1868)年1月に幕府の道中奉行の替わりに、駅逓寮を設けた。その後、駅逓寮の組織は次第に固まっていくが、日々東海道を通行する人は多いので、過渡期には大混乱であったと推測される。桑名城が開城し、桑名藩の土地は新政府の管理下に置かれた。同年閏4月には、桑名町の組織、桑名宿の組織は従来のままと新政府から通達されている(「公文録」)。幕府や桑名藩が無くなっても、民間人の組織が無くなったわけでない。だから桑名宿での船・人足・馬の提供は従来通りに行われたのである。

幕末から物価が高騰しており、従来の値段で船・人足・馬の提供は難しくなり、新政府は慶応4年5月には人足・馬の値段を元値段の6.5倍にした。七里の渡しの渡船料は同年7月に元値段の3.5倍にした(「太政類典」)。この場合の元値段とは正徳元(1711)年に幕府が定めた値段で、幕末にかけて次第に高くなっていた。

  参考文献 「豊秋雑筆」(鎮国守国神社所蔵)
        「公文録」 (国立公文書館所蔵)
        「太政類典」(国立公文書館所蔵)

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