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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ37
「蝦夷での松平定敬」

シリーズ31で書きましたが、前桑名藩主・松平定敬(以下、定敬と略す)は明治元(1868)年9月に仙台に着いた。しかし、ここも新政府軍の勢力下になってきたので、塩釜などを転々と移動した。そのうちに榎本武揚が率いる旧幕府軍の軍艦が蝦夷へ向かうので、定敬とお付きの成瀬杢右衛門、成合清、松岡孫三郎が開陽丸に乗った。他に備中松山藩主・板倉勝静、肥前唐津藩世子・小笠原長行も同乗した。他の桑名藩士たちも別の船に乗った。途中で寄港しつつ、10月21日に蝦夷の鷲木村沖に到着した。

定敬・板倉・小笠原の3人は貴人であるので、乗船中は将校室を宛がわれたが、榎本軍にとっては、むしろ邪魔者のように思われていた。そして何事も1人でするように申し渡された。兵隊たちは鷲木村へ上陸して、箱館(函館)を目指して進軍したが、定敬ら3人は船に滞在したままで情勢を見ていた。開陽丸が出港することになり、定敬ら3人も鷲木村に上陸したが、鷲木村は人家も少なく、商店も少なくて不便なので、やがて近くの森村へ移った。榎本軍は箱館を制圧して、蝦夷政府を樹立した。定敬ら3人は森村を出発し、峠下で一泊して11月15日頃に箱館に到着した。ここでの宿舎は弁天町の山田屋であった。

 蝦夷へ渡った桑名藩士は20人ほどであったが、新選組に加入して、土方歳三の部下として戦争に参加した。その中に家老の沢采女、公用人の森弥一左衛門も居た。沢は家老であるが、殆ど役にたたなかったようで、ここでは森が改役、沢は改役下役であり、森の方が上役であった。桑名藩士の佐治寛は箱館で病死している。

箱館では松平定敬は外出する際は1、2人しかお伴が付かなかった。しかし、時々は榎本たちと共に料理屋で芸者を侍らすこともあった。また箱館在住のアメリカ人、フランス人、ロシア人とも交際した。一先ず海外へ避難することも検討されて、アメリカ人に相談したが、同意されず、資金もないので海外渡航は立ち消えになった。日々の生活資金にも事欠き、資金を得るため、松岡孫三郎が12月28日頃に外国船に乗って東京へ旅立った。宿屋では経費がかさむので、定敬は12月末頃に山之上神明社の神職宅に移った。

 前回に書いたが、12月24日には桑名藩家老・酒井孫八郎と部下の生駒伝之丞が箱館に到着した。酒井らは明治2年正月元旦に定敬と再会し、以後は酒井らが身の回りの世話をした。酒井は定敬が箱館から出ることを榎本や土方と協議した。また、定敬は英語の勉強をしており、孫八郎も一緒に英語を学んだ。定敬は桑名藩士たちを連れて、料理屋でドンチャン騒ぎをすることもあった。桑名藩士の石井は鹿毛の馬を定敬に贈ったので、定敬は喜んで市中を乗り回している。

 正月中旬ころには、上海への渡航の話も出たが、何分にも旅費もなくて決めかねた。取りあえず、2月15日に生駒伝之丞はフランス人の斡旋で船に乗って、連絡のため東京へ向かった。年末に東京へ向かった松岡孫三郎は後藤多蔵、平松屋寅吉と共に3月7日に箱館に着いた。おそらく東京の情勢を伝えるとともに、資金を持って来たのだろう。3月末には新政府軍の軍艦が箱館へ攻めてくる情報を得て、海外への渡航への進退を迫られたが、適当な船もなかった。

 春になり梅花は盛りで、桜は僅かに開きかけであった。しかし、情勢は緊迫してきた。即ち新政府軍の軍艦が青森に集結し、箱館に攻めてくることが確実になった。箱館の人たちは避難するために市内は混乱し、外国人は箱館から船で脱出した。4月5日午後に定敬・板倉・小笠原が集まった席で、榎本から箱館を立ち退き、室蘭沖に用意してある船に乗るようにと言われた。いよいよ降伏への道を辿ることになる。

参考文献 『艱難実録』(辻七郎左衛門忠貞 個人蔵)
 「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』第4巻所収)
     「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
     「公文録」(国立公文書館所蔵)
     「桑名藩御触留」(岩瀬文庫所蔵)
     「戊辰戦争見聞略記」(谷口四郎兵衛、個人蔵)
     「魁堂雑記」巻3・巻14(鎮国守国神社所蔵)

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