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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ38
「松平定敬の降伏」

明治2(1869)年4月7日、前桑名藩主・松平定敬は部下の酒井孫八郎らとともに箱館(函館)を出発し峠下で一泊し、翌日に森村へ着いて宿泊した。ここから船に乗り、室蘭沖合に停泊している大きな船に乗る予定だったが、海が荒れたため9、10日と滞在した。11日に森村から出航したが、停泊している筈の船に出会えず、やむなく引き返し、12日に砂原へ着船。陸路を歩いて亀田に夕刻に着いた。ここで板倉勝静・小笠原長行らの一行とも一緒になった。ここから金子(平松屋)寅吉が箱館へ行き、調べたところ、上海行きのアメリカ帆船が明朝に出港する情報を持ち帰ってきた。しかし全員が乗ることが出来ず、定敬と酒井・松岡孫三郎・金子のみ乗ることになった。定敬ら一行は深夜に亀田を出て、箱館に向かい、13日未明にアメリカ帆船に乗船して、蝦夷から脱出できた。
 最初は風がなくて船は進まず、途中から逆風の南風となり、あちこちの港で風待ちしながら26日になって、やっと横浜沖に到着した。ここで酒井は下船し、小船で横浜へ着いた。定敬はそのまま上海へ向かった。金子も同行したようだ。金子は横浜で貿易商をしており、海外の事情も詳しく、英語も話せたので、定敬に同行したと思われる。
酒井は28日に東京へ到着して、様子を探り、5月3日に東京の尾張藩邸(市ヶ谷)へ出頭して、経過を述べて定敬が降伏する旨を伝えた。定敬は取りあえず上海へ行き、その間に酒井が降伏の根回しをしたようで、近いうちに定敬が横浜へ帰ってくることは予定の行動であったと思われる。酒井は8日に尾張藩の武士に付き添われ、横浜へ行き定敬が戻って来るのを待った。
 定敬と金子が上海へ着いた日は不詳だが、5月10日に上海を出港する、アメリカ郵便汽船(MAIL SHIP、当時の訳語では飛脚船)コスタリア号に定敬らは乗船し、13日に長崎、16日に兵庫を出港して、18日に横浜へ着いた。当時のアメリカ郵便汽船は上海―長崎―兵庫―横浜―箱館―上海を航路としていた。 18日夜に横浜へ上陸した定敬を酒井は出迎えて、すぐに林光寺へ行き、宿泊した。定敬は20日夜に尾張藩の兵隊に付き添われて、横浜を出発し、翌日の未明に東京の尾張藩邸へ着いた。以後はこの尾張藩邸で謹慎生活をおくり、酒井や生駒伝之丞らが付き添った。
 伏見から奥羽に到り、さらに横浜へ着船した経緯を書き出すように、5月24日、政府から命じられ、25日に陳述書を差し出した。さらに26日に箱館から上海を経て横浜に着いた月日を書き出すように命じられて、直ぐに追加の陳述書を差し出した。この陳述書に書かれた月日などは、他の史料を照合すると、若干の相違があり、少し作為がみられる。
 寛大な処置を望む嘆願書が桑名の地元から出され、政府で検討の結果、8月15、桑名藩の再興が認められた。領地は約半分の6万石となって、員弁郡の一部や柏崎の飛び地などは政府に取り上げられた。定敬は27日に東京神田橋内の津藩邸に移り、ここで謹慎生活を送ることになった。

参考文献 「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』第4巻所収)
      「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
      「公文録」(国立公文書館所蔵)
      『戊辰戦争見聞略記』(くわな市民大学歴史専門学科編集)
      『THE HIOGO AND OSAKA HERALD』(1869年6月26日)
      『THE JAPAN TIMES’ OVERLANDO MAIL』(1869年7月13日)
      「松平定敬降伏の経過」(西羽晃『郷土史を訪ねて』所収)

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