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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ39
「桑名藩の再興」

前回に述べましたように、明治2(1869)年8月15日、桑名藩の再興が認められました。そして、先々代藩主・定猷の遺児・万之助に6万石の支配を許されました。約半分の領地となって、員弁郡の一部や柏崎の飛び地などは政府に取り上げられました。
 江戸時代の封建制は各藩に大幅な行政権が与えられていました。いわば地方自治だったのですが、明治2年6月には版籍奉還が行われ、行政権は中央政府1本となり、各藩は中央政府の指揮下に置かれました。すなわち中央集権となったのです。
 9月3日には城が引き渡されて、桑名藩の再興が開始されました。従来のような行政権は大幅に制限されましたが、占領下から解放されることになり、城内は勿論、町中の警備や消防なども復帰しました。武士は自宅謹慎から解放され、表札を出すことや大扉を開けることも許されました。
 9月20日に定教が「従五位 桑名藩知事」に任命されました。定教とは万之助が改名して名乗った名前で、この時に定教として政府に正式に認められました。
 藩知事の下に大参事、権大参事、少参事、権少参事の役職が設けられ、それぞれ選挙によって選ばれて、10月22日に大参事に酒井孫八郎、権大参事に松平帯刀が任命されました。同月26日には少参事に馬場甚八郎、権少参事に金子権太郎が任命されました。松平帯刀は藩主の親戚、酒井孫八郎は家老でいずれも上級武士でしたが、馬場や金子は中級武士でした。従来の家柄や門閥に関係なく、実力のある人物が選挙で選ばれたようです。
 8月までは占領下の名古屋藩・津藩によって桑名藩士へ生活費が支給されてきましたが、その後は自立したため、桑名藩で支給する必要に迫られました。しかし藩には支給できる米も金銭もありませんから、9月に不足分として米1,364石を政府から出してほしいと歎願しました。そして11月になって政府から米買入れ代金として15,000両を貸して貰えました。但し来年の年貢米で返済する条件です。
 桑名藩の敗戦責任者を差し出せと政府から命じられていましたので、箱館まで戦った森陳明を差し出すことになりました。森は桑名藩の公用人を勤めた人物です。公用人時代は京都に居て、各藩の公用人と接触していましたから、顔をよく知られていた人物です。身柄を東京へ送られ、11月13日に深川入船町の元桑名藩借屋敷で処刑されました。
 12月には本年度の年貢米が納まってきましたが、人員は減っていないのに、領地は減らされている上に、不作でもあって、全員に十分な支給が出来ない有様でした。来年にはさらに厳しい減少になることも見込まれます。差し当たりは身分に応じて、最高は金20両と米1俵づつ、最低は金5両と米8升づつが支給されました。
 明治3年2月16、17日に元治元(1864)年以来に戦死した桑名藩士を弔うための招魂祭を城内調練場で行っています。
 3月4日には権大参事の松平帯刀が病気のため依願退職し、服部半蔵が大参事になっています。酒井孫八郎と服部半蔵は実の兄弟で、共に大参事となったわけです。他に権大参事に山脇十左衛門・町田武介、権少参事に蛯原源吾・松浦朔兵衛が就任しました。

参考文献 「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
      「公文録」(国立公文書館所蔵)
      「桑名藩御触留」(西尾市立岩瀬文庫所蔵)
      「松平定敬降伏の経過」(西羽晃『郷土史を訪ねて』所収)

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