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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ45
「廃藩置県」

桑名藩の飛び領地であった越後柏崎は新政府軍に占領されて、明治元(1868)年7月に政府直轄の柏崎県となりました。また戊辰戦争で敗北した桑名藩は2年8月15日付けで再興されたことは、このシリーズ39で書きました。従来からの支配地が大幅に減らされ、員弁郡西部にある51か村は名古屋藩に属しましたが、後に政府直轄の度会府に属しました。なお幕府の崩壊により従来は幕府の直轄地であった桑名郡の七郷地区、長島や木曽岬の海岸部も度会府に属しました。七郷地区は4年正月から長島藩に属しました。
 明治4年7月には藩を廃止し、県が置かれる廃藩置県が行われました。とりあえず管轄地はそのままで、桑名藩は桑名県、長島藩は長島県と名称が変わりました。志知など久米地区は従来から忍藩領でしたから、忍県となりました。大きな変化は従来の藩主が藩知事になっていたのが、藩知事制が廃止されたことです。行政は大参事以下の役人で行われるようになりました。桑名藩の大参事は酒井孫八郎と服部半蔵です。
 同年11月には第二次の廃藩置県が行われ、従来からの藩の枠組みが大幅に変更され、現在の三重県の北半分は安濃津県となり、南半分は度会県となることが発表されました。桑名県や長島県は明治5年3月に安濃津県に移行が完了しています。桑名県や長島県は廃止となり、その役人のうち一部は安濃津県の役人となりましたが、多くは失職しました。
 安濃津県の県庁は最初は津に置かれましたが、県の南に偏っているため、中心になる四日市へ県庁は明治5年3月に移りました。県庁所在地の郡名を県名とする決りだったので、四日市のある三重郡にちなんで三重県となりました。四日市は江戸時代は幕府の代官所があり、東海道の宿場町でしたが、人口も少なくて余り大きな町ではありませんでした。県庁関係の建物や県役人の住居が足りない有様でした。そのため6年12月に再び津に県庁を戻しました。但し県名は三重県のままとしました。
 なお、明治9年に度会県を廃して、三重県に併合して、現在の三重県の管轄地がほぼ定まりましたが、その後に愛知県及び岐阜県との県境が修正されて、13年5月に五明村(現弥富市)・福原新田(現愛西市)などが愛知県に、16年11月に油島新田・金廻村・江内村(現海津市)は岐阜県の管轄となりました。
 これより先に、明治5年5月に大小区制が実施され、桑名郡は第三大区、員弁郡は第四大区と呼ばれました。大区の中に小区が設けられ、第三大区には6小区、第四大区には4小区がありました。しかし12年2月に大小区制は廃止され、元の郡・町村制に戻りました。

参考文献 『柏崎県史資料』(柏崎市史編さん委員会 1982年)
      『三重県史』(弘道閣 1918年)
      『明治初期戸長役場資料』(三重県郷土資料刊行会 1982年)
      『三重県史 資料編近代1』(三重県 1988年)
      『三重県史 通史編近現代1』(三重県 2015年)

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