幕末・維新の桑名藩シリーズ46
「遠藤利貞(えんどう としさだ)について」 |
遠藤利貞は天保 14(1843)年、桑名藩士堀尾利見(としあり)の三男として、江戸の桑名藩屋敷で生まれました。幼い時に桑名藩士遠藤家の養子になりました。9歳のころ父から算術を学び、さらに江戸京橋の細井若狭のもとで算術の勉強に励みました。武士は行政マンですから、武術だけでなく、算術も必要だったのです。
26 歳の時に戊辰戦争が始まり、彼は旧幕府軍の彰義隊とともに、上野での戦いに参加し、新政府軍と戦いました。しかし敗北したので、偽名を名乗って江戸で半年ほど隠れたのち、桑名に来ました。
桑名では藩校の立教館で彼は算術の先生となりました。明治政府では従来からの算術(和算)を廃して、外国からの洋算を取り入れるようになりました。そのため彼は洋算を学ぶべく明治5(1872)年に東京へ出て、洋算を学びました。翌年には伊勢山田の度会県学校の教員となりました。
明治8年には官立東京師範学校(現在の筑波大学)の教員となりました。その後も各地の学校の教員となり、一生のうち、私立学校 17 校、官公立学校7校で勤務しています。もっとも正規の教員でなく、非常勤講師だったようです。
政府が洋算を進めましたので、従来からの和算が廃れてきました。遠藤は元々和算を学んでいたので、和算の歴史が消え去ることを惜しみ、勤務の傍ら独力で和算の歴史を研究しました。消えゆく資料を求めて苦労し、こつこつと原稿を書き、明治 26 年5月に原稿は完成しました。しかし先に述べましたように非常勤講師で収入も安定せず、彼は生活費にも事欠く有様で、とても出版する費用もなかったのです。
彼は最初の妻とは死別し、明治 27 年に2人目の妻と結婚したのですが、経済的にあまりにも苦しいので、2人目の妻は3か月で別れてしまいました。3人目の妻も1年半ほどで死別し、その後に4人目の妻と結婚するなど、家庭的にも恵まれませんでした。
明治 29 年に三井財閥の三井八郎右衛門の援助を得て『大日本数学史』を出版することが出来ました。28年に東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)助手となり、39 年から帝国学士院で和算書の収集に努めました。さらに研究に励み、『大日本数学史』の改定原稿を書きました。しかし原稿が完成する前に病気となりました。
大正4(1915)年4月 17 日に文部大臣から叙勲の申請が出されました。しかし同月 20 日に彼は亡くなりました。そのため同日付けで「勲六等旭日章」を授与されています。遺骨は東京・染井墓地に葬られました。改定原稿は『増修日本数学史』として、彼の没後に仲間たちによって出版されました。
桑名藩は戊辰戦争で新政府軍に敗けましたが、桑名藩士である遠藤にとっては新政府の施策になじめず、新政府が切り捨てた和算を後世に残すべく、清貧に甘んじながらも努力したのです。桑名藩士としての意地、反骨精神を持っていたと私は思います。
参考文献 「叙勲裁可書」(国立公文書館 アジア歴史資料センター所蔵)
『増修日本数学史』(遠藤利貞遺著・三上義夫編 恒星社厚生閣 1981 年)