幕末・維新の桑名藩シリーズ48
「立見尚文(たつみ なおふみ)と加太邦憲(かぶと くにのり)について」 |
前々回書きました遠藤、前回書きました小沢とは違って、明治政府の中で活躍した人物も居ります。その代表は軍人の立見尚文と文官の加太邦憲です。立見は弘化2(1845)年江戸八丁堀の桑名藩上屋敷で生まれました。戊辰戦争の時に桑名軍の指導者として、敵の新政府軍から恐れられた人物です。廃藩置県後は裁判所に勤めました。明治10(1877)年、西郷隆盛が挙兵するや、明治政府は立見を呼び寄せ、陸軍少佐として参戦させました。その後は陸軍で活躍し、27年には日清戦争で少将として朝鮮半島へ出陣し、この時の功績で男爵を授けられました。その後台湾総督府の軍務局長となり、30年には第八師団(弘前)の師団長となりました。弘前では寒さに強い軍隊を育てました。
明治37年の日露戦争では、寒さの中で日本軍は苦戦しました。そのため、立見の率いる弘前の師団が中国東北部へ派遣されました。ここでの立見の活躍で日本軍は勝利を収めることが出来ました。この功績で陸軍大将となりました。戊辰戦争で相手として戦った長州閥の陸軍のなかで、反長州出身の立場では異例のことで、藩閥に頼らずに実力で高い地位を得たのでした。参戦の際に凍傷を受けて、40年3月6日に東京で亡くなりました。葬儀には天皇から供花料が寄せられ、長州出身の山県元帥や薩摩出身の大山元帥が参列し、深々と頭をさげました。正三位勲一等功二級を授けられました。
加太邦憲は嘉永2(1849)年に桑名外堀で生まれました。桑名藩校の立教館で漢学を学びました。戊辰戦争の時は直接戦闘に参加せず、桑名城明け渡しの後は本統寺に収容されました。その時に前回書きました小沢から英文を見せられ、これからは英語の時代だと教えられました。その後立教館が再開され、彼は漢学の先生となりましたが、桑名藩では西洋の学問を認めなかったので、反発して上京しました。最初は軍人になるつもりで、大学南校(現東京大学の前身の一つ)でフランス語を学びましたが、身体が弱くて軍人をあきらめ、司法省明法寮学校(現在の東京大学の前身の一つ)でフランスの法律を学び、明治9(1876)年に卒業し、日本最初の法学士の一人となりました。当時の日本はフランスの民法が主流であり、彼も民法学者として歩みました。
19年3月から23年7月までヨーロッパへ留学し、司法行政および裁判事務の調査に当たりました。帰国後は大津・京都・東京地方裁判所の所長を勤め、21年6月大阪控訴院(現大阪高等裁判所)長を勤めましたが、病弱のため28年に休職しました。その後健康は回復しましたが、復職せず44年に退職しています。その前の43年には貴族院議員に選ばれました。そして旧桑名藩主の松平家の御用掛りを勤めたり、政府の維新史料編さん会委員にもなっています。昭和4(1929)年12月4日に東京で亡くなりました。没後に追贈があり従三位勲二等となっています。生前から自分史を書いており、没後に息子の重邦の手によって『加太邦憲自歴譜』として出版され、現在は岩波文庫で『自歴譜』として出版されています。
参考文献 「陸軍大将男爵立見尚文特指叙位ノ件」他(国立公文書館 アジア歴史資料センター所蔵)
『立見大将伝』(佐治為善編 1928年)
『闘将伝 小説立見鑑三郎』(中村彰彦 1994年)
「故退職判事加太邦憲位階追陞ノ件」(国立公文書館 アジア歴史資料センター所蔵)
『加太邦憲自歴譜』(加太邦憲遺著 加太重邦発行 1931年)