幕末・維新の桑名藩シリーズ47
「小沢圭次郎について」 |
小沢圭次郎は天保 13(1842)年、桑名藩の藩医である小沢長安の次男として、江戸築地の桑名藩下屋敷で生まれました。この下屋敷は松平定信が幕府から拝領した屋敷で、定信が設計して浴恩園と名付けられていました。圭次郎は江戸で漢学・医学・蘭学を学び 21 歳の時に長崎に遊学し、のちに大坂の緒方洪庵の塾で英語も学びました。慶応3(1867)年 12 月に江戸から桑名へ来ました。翌年正月には桑名城は新政府軍に明け渡され、彼も寺院に収容されて、謹慎しました。謹慎中も彼は英語を独習しています。
謹慎が解かれてからは、自宅と大矢知で英語を教えています。しかし桑名藩の学校では「漢学こそが学問であり、西洋の学問は学問でない」という風潮がありました。そのため彼は明治3(1870)年に上京し、4年 11 月9日に海軍兵学寮に出仕、のち文部省字書取調掛、東京師範学校校長心得及び同校長補などを経て、12 年3月から 19年5月まで東京学士会書記を勤めています。その間に 14 年5月からは文部省御用掛を兼務しています。
東京では新しい首都を建設するため、江戸時代からの大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊されていました。彼が生まれ育った浴恩園も海軍の施設となって、破壊されました。このような現状を目のあたりにして、職務の余暇に古い庭園を記録し、資料を収集しました。
19 年に退職してからは専ら庭園研究に励み、70 歳になった 44 年から東京府立園芸学校(現東京都立園芸高校)の講師となっています。大正4(1915)年に「明治庭園記」を発表しています。ここには和風庭園の詳細な記録、写真、図面が載せられて、現在では失われた庭園も多く、貴重な資料となっています。
彼は単なる庭園史の研究家でなく、自らも庭園の設景にあたっています。代表作には大阪天王寺公園内の和風庭園、ロンドンの日英博覧会の庭園、桑名の九華公園、高松の栗林公園などです。東京の日比谷公園の設景コンペに和風庭園を応募しましたが、政府は洋風庭園を採用してので、彼の提案は採用されませんでした。
彼は若いころから西洋の学問を学びましたが、江戸時代の武士らしく、学問の基礎は漢学であり酔園と号して漢詩文集「晩成堂詩草」を書いています。最初西洋医学を志したようですが、途中から和風庭園の研究家になったのは、前回に書いた遠藤利貞のように戊辰戦争で負けた桑名藩士の意地があり、日本古来の和風文化を否定する明治政府への反抗心があったと私は思います。
参考文献 「明治庭園記」(小沢圭二郎著 1919 年 『日本園芸史』所収)
『加太邦憲自歴譜』(加太邦憲著 1931 年 加太重邦発行)
『創立六十年』(東京文理大学編 1931 年)
『日本公園緑地発達史』(佐藤昌著 1977 年 鞄s市計画研究所)
「小沢圭次郎学寮出仕の達」(国立公文書館 アジア歴史資料センター所蔵)
「東京学士会院年報要略」(国立公文書館 アジア歴史資料センター所蔵)