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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ30
戦後の県立桑名高等女学校

1945年7月17日に桑名は大空襲を受け、桑名市内にあった県立桑名高女・桑名市立高女・県立桑名中学も焼けてしまった。8月15日に日本は降伏し、戦争は終り、学校の授業は再開されたが、校舎がないので、各地へ転々と移動しての授業となった。中でも県立桑名高女は目まぐるしく移動している。

まず4年生(当時の高等女学校は4年制でした)は東方の専明寺、3年生は川越村豊田の最覚寺、1,2年生は神田村(現東員町)国民学校と川越村国民学校(当時は小学校は国民学校と呼ばれた)。

46年2月に神田校から在良村国民学校へ移動。4月から高等女学校は5年制となる。
4月6日、入学式を在良校で。8日、始業式を旧校庭(吉之丸)で。9日から川越村高松の光輪寺・善養寺、同村福崎の法雲寺・集会所。生徒たちは畳に座り、自分で持ってきた座り机で勉強した。

同年4月29日天長節(昭和天皇の誕生日)拝賀式は、5年生が専明寺、1,3,4年生は川越校、2年生は在良校。このころから新しい校地が考えられ、益生駅近くが予定された。校舎は香良洲にあった軍隊の建物を払い下げることになった。校舎復興資金集めも行われた。生徒たちも演芸班を組織して公演して、資金募集を行った。同年12月20日、新校舎建設の工事入札が行われ、竹中工務店が落札した。47年2月15日に新校舎起工式が行われた。

その間にも度々の移動があり、朝日の東芝女子寄宿舎や朝日村縄生の真光寺および集会所、西別所の辻内鋳物工場が使われた。

新校舎建設の目途が立った47年4月14日、山本威雄校長が急死した。建設にともなう様々な心労がたたったのだろう。新しく鷲野義俊校長が赴任した。

新校舎の一部が出来るとともに、まず5年生が9月から新校舎へ移った。12月に3,4年生、48年2月2日に2年生が新校舎に移り、これで全校生徒が一同に集まった(47年度から義務制の新制中学校が出来て、全員が新制中学校へ進学し、旧制の高等女学校や中学校への進学がなくなり、当時は1年生はいなかった)。

48年4月30日、新校舎の工事は完了した。しかし、旧制の高等女学校や中学校は廃止となり、在校生は新制高等学校や新制中学校へ転校することになった。桑名では旧制の県立桑名高女・桑名市立高女・県立桑名中学が廃止され、新制の桑名高校が出来た。5月8日、県は5月13日までに転校を完了するように通達を出した。わずか5日間しか余裕がない、慌しさである。12日お別れ式を行い、演芸会を催して、県立桑名高女は廃校となった。折角出来た新校舎は桑名市立明正中学校の校舎として使用されることになった。

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