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連載 桑高百周年シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

桑高百周年シリーズ31
鷲野義俊校長先生

私が桑高に入学した1952(昭和27)年から卒業までの校長は鷲野義俊先生でした。彼は1951年から61年まで10年間も桑高校長を勤め、歴代で最も長い期間の校長です。

彼は1903(明治36)年2月1日に岐阜県の伊東家で生まれました。19(大正10)年広島高等師範学校に入学し、25に同校を卒業し、修身教育国語漢文科の免許を取得。同年呉市立中学校に就職し、28(昭和3)年に大阪府立高津中学校に転勤。ここで後の作家・織田作之助を教えて織田に文学志向への影響を与えたといわれる。そのころ伊東姓から鷲野姓に変えている。

その後奈良県立桜井高等女学校へ移り、40年に四日市(市立)高等女学校へ移り、43年四日市市立富洲原実科高等女学校長となる。同校の校歌を作詞している。45年に同校は四日市市立北高等女学校と改称。46年には私立暁幼稚園長も兼務。また私立暁女子専門学校(現四日市大学)の設立に協力。47年三重立桑名高等女学校の最後の校長となる。48年同校が廃止となり、一時三重県教育委員会課長となり、49年鈴鹿高校長・50年白子高校長を歴任し、51年桑名高校長となる。桑高在職中に三重県高等学校野球連盟会長も勤める。55年四日市高校が甲子園の野球大会で全国優勝した時の会長であり、このころが彼の人生で最も充実した頃であろう。59年に伊勢湾台風に見舞われ、その後の復旧に尽力され、新校舎落成式の直前の61年に同校を退職、野球連盟会長も辞任。一時名古屋の私立桜花学園女子高校に勤務しました。

彼は四日市市の中心部に住んでいて、公害病と謂われる四日市ゼンソク(気管支ゼンソク)に罹り、65年6月公害患者として認定されました。67年10月5日塩浜病院にて64歳にて死去。死因は公害病とは関係ないが、ゼンソク治療のための副じん皮質ホルモンを投与したのが影響したともいわれる。

私は桑高在学中に鷲野校長に可愛がってもらい、いつも温和な笑顔に接していた。後で知ったが、大変な酒豪であったとか。
合掌

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