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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ28
柏崎での対応

慶応4(1868)年の正月3日に鳥羽伏見で始まった戦いの噂が、桑名藩の飛び領地である越後柏崎に7日に伝わってきます。4日ほどで情報が来たことになります。柏崎に敵(新政府軍)が攻めてくるかも知れないが、今の陣屋では防衛できないので、新しい防衛拠点を設けることが、17日には桑名藩の柏崎陣屋からお触れ出されています。その後は慌ただしい日々が続くし、町民は御用金を献納したりしています。2月4日には桑名城が無事に開城した情報も入り、戦争にならなかったことを町民たちは喜んでいます。

慌ただしい日々の中でも日常の業務がありますが、宗門改めは当分見合わせるとの通達が3月19日に出されています。3月23日には江戸から藩士が来ることが伝えられ、それ以後に追々と藩士が到着しています。藩主の松平定敬も来ますので、勝願寺を宿舎とするための工事を行うことになり、25日から町中の大工が集められますが、弁当持ちで来るように言われます。藩主到着の際の行事も追々と相談がありますが、普段なら道筋の家の前に盛り砂をするのですが、非常の場合なので、盛り砂は省略するように通達されます。

3月30日午後、定敬一行は柏崎に到着しました。4月1日には桑名藩の米が払い下げのため入札されたり、12日には宗門改めが実施されたり、日常の業務も行われています。

定敬の側近にあった吉村権左衛門は穏健派でしたが、閏4月3日の闇夜に暗殺され、穏健派の勢力が弱くなりました。そこへ閏4月12日、戦場で戦ってきた桑名藩軍の大勢が柏崎に到着し、過激派が多くなりました。

13日には定敬の許で会議が開かれ、抗戦の意思統一を固め、他の藩や旧幕府の武士をも含めて約500人余の桑名藩軍が再編成されました。柏崎陣屋でも家族たちは家財道具を荷造りして、最寄りの家に預けています。その知らせが町に伝わりますと、町民たちも戦争が始まることをおそれ、家財道具をまとめて、近くの村へ疎開させています。

江戸から来た藩士は生々しい戦場体験をもってきましたが、柏崎陣屋に居た藩士は戦場体験がなく、両方の間にはとかく意識のずれがあって、考えに食い違いが見られました。

何しろ500人ほどの人が泊まるための宿舎・夜具・食糧の手配などが必要が大変です。それには柏崎付近の事情をよく知っている、柏崎陣屋の藩士が尽力しています。中でも渡部平太夫(幼名・真吾)が大活躍しています。渡部平太夫は祖父が「桑名日記」の筆者であり、父は「柏崎日記」の筆者ですが、父の代に柏崎に赴任し、そのまま桑名へ戻れずに父子が柏崎で勤務しました。彼は下級武士でしたが、こまごまとした仕事を処理する有能な藩士でした。

16日には定敬は戦場を避けて、旧幕府領の加茂へ移動しています。それには約150人が付き添ったようです。それだけの人数が移動するのですが、それに渡部平太夫が陣頭指揮にあたっています。

27日に柏崎郊外の鯨波で戦闘が始まりました。桑名藩軍は有利に戦いを進めましたが、 後方からの支援がないので、柏崎を放棄して撤退して行きました。しかし元から柏崎陣屋に居た藩士の多くは柏崎に止まり、新政府軍に降伏しました。彼らは捕虜として家族とも収容され、39軒・家内男女子どもを含めて150人ほどが7月19日に船で柏崎を出て、途中は風待ちで日数がかかり、8月2日に敦賀に着き、後は大垣まで陸路を歩き、大垣から揖斐川を船で下り、桑名へ戻ってきました。渡部平太夫も家族を連れ桑名へ来ました。その時に「桑名日記」・「柏崎日記」も携えてきたと思われます。

参考文献 「魁堂雑記」3巻(鎮国守国神社所蔵)
 「柏崎町会所御用留」(『柏崎市史資料集 近世編5』所収)
 「御用留等」「篤之助聞書」(『柏崎市史資料集 近現代編1』所収)
  加太邦憲『加太邦憲自歴譜』(1931年 加太重邦発行)

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