幕末・維新の桑名藩シリーズ29
桑名での謹慎 |
幕末・維新の桑名藩シリーズ 25で述べましたが、慶応4(1868)年1月28日に桑名城は無血開城され、新政府に占領されました。新政府の軍勢は1月末ころに大村藩・亀山藩・岡山藩・鳥取藩・佐土原藩・熊本藩・高須藩など約5445人が桑名に滞在しました。東海道の総督橋本実梁と副将柳原前光は川口町の丹羽善右衛門(本陣)に泊り、参謀たちは川口町半田屋源八、その他は川口町京屋小兵衛、本町綿屋久兵衛、仏眼院、大塚与六郎(本陣)、山田彦右衛門、米屋茂吉、福島屋作左衛門(脇本陣)、大井田屋勘助、石屋市蔵、米屋浅右衛門などに泊りました。大きな宿屋だけでなく、町人の家にも泊まっています。桑名宿では大塚本陣が格式が最高の宿でしたが、このころは破損していて、身分の高い人が宿泊できない状態だったようです。
新政府の軍勢とは別に尾張藩と津藩に命じて桑名藩を管理させました。何事も新政府の命令が尾張藩と津藩を通じて伝えられ、逆に桑名藩の申入れは尾張藩と津藩を通じて新政府へ出されました。桑名藩独自では何事も決められない状態になりました。
藩士たちは1月25日から26日にかけて城下の寺には入って謹慎しました。「魁堂雑記」巻3では、藩主松平家の菩提寺である照源寺に96人、寺町の本統寺296人、仏乘寺62人、覚専坊7人、西福寺98人、長寿院25人、常信寺102人、海蔵寺53人、輪崇寺32人で合計777人が収容されました。ただし内訳を合計すると771人ですから、計算間違いか、書き間違いとも思われます。他にも円妙寺にも収容された資料もあります。ともかく桑名に残っていた藩士の大半の人数です。常信寺、海蔵寺、輪崇寺は津藩が管理し、その他は尾張藩が管理しました。
藩士たちは新政府に反抗した犯罪人として収容され、尾張・津藩が発行する鑑札を持っていないと出入りすることが出来ませんでした。外出する場合も尾張・津藩の武士が付き添いました。着のみ着のままで来たため、着替えもなくて垢じみた着物の侭であり、狭いところに大勢が生活しており、入浴も満足にできずに劣悪な衛生状態におかれました。
津藩では東北への出兵もあり、収容者を取り締まりする人数の余裕もなく、大勢の人に食事を提供する手間も大変ですし、またこれから暑くなるので、着替えや蚊帳の手配などの経費もかさむため、他の藩にも分散して受け持ってほしいと何度も要望しています。そのような事情から、一部の人を除いて閏4月初めには順次自宅へ帰ることが許されました。3か月あまりの窮屈な謹慎生活から解放されました。家族たちは1か月ほど前に帰宅を許されていましたので、やっと元の家庭生活に戻りましたが、自宅の表門も締切り、むやみな外出は制限されて、自宅での謹慎生活となりました。生活費は桑名藩の米蔵から尾張・津両藩によって支給されました。
前藩主の奥方である珠光院および2人の姫君は照源寺に収容されていましたが、一般の藩士の帰宅が完了した後、閏4月25日に親族の松平帯刀宅に移りました。
前藩主の遺児である松平万之助、および家老3人らは四日市川原町の法泉寺に収容されていましたが、その取締りは最初は亀山藩、次に膳所藩、豊橋藩と変わりました。寺の周辺は取締りの武士によって厳重に警備され、寺の人の日常生活にも差支え、檀家の人が寺に参ることもできませんでした。法泉寺では困惑し、陳情を繰り返しましたし、桑名藩や桑名の町人・寺院などが陳情した結果、万之助は閏4月29日桑名へ戻り、本統寺に収容されました。
参考文献 「魁堂雑記」3巻、11巻、14巻、17巻(鎮国守国神社所蔵)
田川要「明治維新前後の記録」(個人蔵)
「請願書」(四日市市・法泉寺所蔵)
「桑名藩御触留」(西尾市立図書館「岩瀬文庫」所蔵)
仏眼院「公私用留記」(桑名市博物館所蔵)
「松平定教家記」(国立公文書館所蔵)
「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』所収)