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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ30
酒井孫八郎の家族について

桑名藩家老の酒井孫八郎の活躍については、すでに述べてきましたが、彼のことをもう少し付け加えることにします。『酒井孫八郎日記』によりますと、慶応4(1868)年閏4月24日、妻が男子を出産しています。そのため産穢(出産)休暇を申請しましたが、非常時のため許可されていません。妻の出産に際して、夫にも休暇が与えられているのです。

孫八郎は弘化2(1845)年11月17日に桑名吉之丸の桑名藩家老・服部半蔵正綏の次男として生まれました。兄は服部半蔵正義で弘化2年9月29日に生まれています。僅か2か月足らずの違いですから、孫八郎は側室から生まれたのでしょう。この兄弟が幕末・維新の桑名藩の両輪として大活躍するのです。

孫八郎は安政5(1858)年に酒井家9代目の酒井三右衛門朝益の養子となり、500石取りとなりました。文久2(1862)年2月19日に朝益の養女・幸と結婚しました。幸は朝益の後妻(吉村又右衛門の娘)の妹でした。男の子を産んだようですが、その子は元治元(1864)年11月21日に夭折しています。幸は慶応2年7月5日に桑名で亡くなりました。

慶応2年の孫八郎は21歳(数え年)で、すでに家老職となって多忙を極めています。文久3年2月には藩主・松平定敬に従い上洛し、6月には天皇に拝謁しています。同月に桑名へ戻り、同年9月には江戸勤務となっています。元治元年11月には桑名へ帰っています。慶応元年11月に京都へ、慶応2年2月に桑名へ帰っています。同年4月には再び京都へ行き、さらに大坂へ行き、同月のうちに京都へ戻り、12月には桑名へ帰っています。即ち妻が亡くなった時は京都在勤中でした。葬式に戻ってきたか、どうか不明です。

慶応3年3月14日に、豊橋藩士・酒井直之進の妹と結婚しています。豊橋の酒井家は桑名酒井家の初代綱重の息子(綱直 慶安2=1646年10月15日没)が分家した家系で、10世代も違っていますが、遠戚にあたるのです。上述した慶応4年の出産は、この再婚した女性と思われますが、のちに彼女は離婚しているので、「酒井家譜」にも名前が記録されておらず、詳しいことはわかりません。

明治6(1873)年に、前桑名藩主・松平定猷の次女である高子と結婚して、男子が生まれましたが、夭折しているようです。後に高子は離婚したようで、松平姓に戻り、大正3(1914)年10月26日に没して、桑名藩主松平家の墓地に葬られています。なお同じ墓石に松平保子(明治31年4月10日没)が葬られています。この保子は不詳の人物です。

そもそも酒井家の初代綱重(寛永2=1625年7月24日没 京都)は小田原の北条家に仕えていましたが、北条家が没落後に松平定勝の家老となり、定勝の3男の定綱が分家した時に定綱に付けられて、以後代々定綱家(越中守家)の家老を務めた家柄です。2代・綱英(承応3=1654年7月4日没 桑名)、3代・朝房(正徳3=1713年10月4日没 越後高田)、4代朝章(元文5=1740年没 越後高田)、5代朝昌(明和2=1765年1月4日没 白川)、6代朝豊(明和6=1769年10月5日没 白川)、7代朝貫(享和2=1802年8月7日 白川)、 8代朝修(嘉永6=1853年1月10日 桑名)、9代朝益(安政5年8月18日 江戸)と続いてきました。

※( )内の地名は葬った所)

参考資料
 「酒井家譜・過去帳」(酒井敏旧蔵、桑名市博物館所蔵)
 「酒井孫八郎日記」(『維新日乘纂輯』1927年 所収)
 『天明由緒』(2008年 桑名市教育委員会発行)
 『加太邦憲自歴譜』(1931年 加太重邦発行)

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