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連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ31
松平定敬の北行

幕末・維新の桑名藩シリーズ29で書きましたが、元桑名藩主の松平定敬は慶応4(1868)年閏4月に桑名藩の飛び領地である越後国柏崎に居りましたが、同月16日には旧幕府領の加茂へ移動しています。石井貞行(勇次郎)の「戊辰戦争見聞略記」には14日とあり、またある本には加茂は桑名藩領とあります。しかし「柏崎町会所御用留」には「十六日 晴天 今朝六ツ時御伴揃ニテ中将様(定敬のこと)御義、御預り所加茂町へ御動座ニ付、一統町会所へ相詰御待受申上、御見送り御会釈申上候」とあり、この記録は当日に書いた一次史料で正確です。従って16日が正しく、加茂も桑名藩領でなく、幕府領を桑名藩が預かっていた土地です。

その時に定敬に従っていた家臣は御政事総宰沢采女、御政事奉行久徳小兵衛、御軍事奉行金子権太左衛門などで、小姓として佐治寛、成合清が御伴しました。一方、柏崎に居た主力部隊は閏4月28日に柏崎郊外の鯨波を撤退し、5月1日夜に加茂に到着しましたが、その朝に定敬一行は加茂を出立していました。

その後の定敬一行の日程及び行程は記録が残っていませんので、不明ですが、7月4日か5日に会津若松に到着しています。若松での宿舎は城外の光徳寺です。定敬は毎日昼から若松城へ登城し、夜の8時ころに宿舎に戻りました。

 一方、主力部隊は長岡、朝日山、与板の戦いを経て、6月25日には日の浦に到着し、その後は再び加茂を守衛しましたが、弾薬も無くなり、応援の部隊もないので8月2日に険しい山を越えて、奥州に入りました。服部半蔵らは同月12日に会津若松に入りました。遅れて石井勇次郎らは16日に若松に着きました。戦陣の苦労を労うため、定敬お よび会津藩主・松平容保から金と酒を賜ったので、17日には近郷の東山温泉で体を休めました。

 同月21日、賊徒(新政府軍のこと)が攻めてきたとの連絡が入り、22日には定敬と容保も出陣し、陣頭指揮をしました。23日には郊外の滝沢口が破れて、賊徒が殺到してきました。定敬と容保は馬上で話し合い、容保は若松城内へ引きあげることになり、定敬は米沢を目指すことになりました。二人ともが討死するのでなく、定敬は生き残り、再起を図る目論見だったのです。

 米沢藩主の上杉茂憲の妻は高須藩松平義建の娘・幸姫(即ち定敬の実姉)である。その縁で米沢を頼ったのですが、米沢領の関門を入ることを拒否されました。米沢藩も会津藩とともに同盟を結び、旧幕府軍に参加していたのですが、寝返って新政府軍に付いたためでした。

米沢に頼ることを断念した定敬一行は9月3日に福島城に着いて、形勢を見ていましたが、米沢軍が攻めてくるとの情報があり、10日夜に米沢を出て12日に仙台に到着しました。ここで備中松山藩主・板倉勝静や肥前唐津藩世子・小笠原長行と出会い、旧幕府の軍艦を率いた榎本武揚とも出会って、共に蝦夷へ渡ることになりました。軍艦に乗るには人数を3人に制限されたので、成瀬杢右衛門、成合清、松岡孫三郎が付き添うことになりました。松岡は会計でした。定敬は変装して銃を持って一兵卒のようにして、名前も一色敬之助と変えました。沢采女を定敬の身代わりとして、庄内へ向うように見せかけました。

同じ軍艦に同乗できませんが、沢采女、森弥一左衛門、角谷糺、佐治寛、石井勇次郎、谷口四郎兵衛、土田新之丞、松平栄介、竹内熊雄、竹内徳雅、藤井安八、関川代次郎、内山栄八、水谷藤七、松田六郎、金子庄兵衛などは大江丸に乗って蝦夷へ行くことになりました。

仙台まで付き添っていた久徳小兵衛、金子権太左衛門、平松多門、長尾諫見、岡安十左衛門、佐藤元輔、岩尾忠治、小越勝美、馬場源十郎、辻忠兵衛、平塚与市、斎藤権兵衛、岡弥藤次、川澄金次郎、田中新哉などが仙台で降伏しました。
  
参考文献 「魁堂雑記」3巻、8巻、14巻(鎮国守国神社所蔵)
「服部半蔵日記」(「魁堂雑記」19巻、不破正人所蔵)
「柏崎町会所御用留」(『柏崎市史資料集 近世編5』所収)
石井貞行「戊辰戦争見聞記」(『柏崎市史資料集 近現代編1』所収)
田川要「明治維新前後の記録」(個人蔵)

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