みえきた市民活動センター 桑名・員弁の「まちの情報・市民活動・NPO情報」などの掲載サイトです!

TOP連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ>明治天皇の通行(1)

連載 幕末・維新の桑名藩シリーズ 郷土史家 西羽晃(著)

幕末・維新の桑名藩シリーズ32
明治天皇の通行(1)

慶応4(1868)年4月11日、新政府軍が江戸城に入城し、旧幕府は解体した。まだ旧幕府軍の軍事的抵抗は続いていたが、新政府は新しい政策を次々と打ち出した。そして7月17日に江戸は東京と改められた。新政府が擁立した天皇の権威を広く示すため、天皇の東京行幸を行うことになった。8月13日に豪商の三井3家・嶋田・小野家が新政府に呼び出され、行幸の会計御用を仰せ付けられた。東海道筋への準備などが次々と指令され、8月29日には先発として五辻安仲・戸田忠至ら一行が京都を出発した。9月8日には明治と改元され、明治元年となった。

先発隊は順次と京都を発って東海道を東京へむかった。9月20日に天皇も京都を出発し、その夜は大津で泊まった。22日には土山の土山本陣に泊まったが、この日に満16歳の誕生日を迎えた。25日に四日市黒川本陣を出発し、富田の広瀬五郎兵衛方、小向の伊藤伝八郎方にて休憩し、昼過ぎに桑名の大塚与六郎本陣に到着し、昼食。その夜は同所に宿泊した。町中に警護の武士が溢れ、ものものしい有様であった。

桑名を通行するに先立って、お触れが出されている。主な点は

  1. 前後3日間は桑名藩の武士と家族は外出しないこと
  2. 前後3日間は葬式や死骸取扱は遠慮すること
  3. 通行の見通せる家の二階・窓は塞ぐこと
  4. 通行の道筋の木戸は締切り、木戸のないところは竹矢来すること
  5. 当日は焚き火をしないこと

大塚本陣は現在の船津屋の場所であるが、揖斐川に面しており、庭に船が直接に着くことができた。しかし文久3(1863)年に将軍徳川家茂が上洛の際には大塚本陣は痛んでいたのであろう、本統寺に泊っている。新政府は神道を重んじ、仏教を排除したので、本統寺を避けて大塚本陣に泊ることにしたと思われる。大塚本陣では急いで寝室・厠・湯殿を新築している。その寝室と思われる上段の間の建物は、四日市市川北町の法従寺に移築され、現存している。

3種の神器である八咫鏡は常に天皇と共に運ばれており、その鏡を安置して置く場所を内侍所(ないじどころ)と言ったが、桑名では春日神社が内侍所に指定された。当時の春日神社は神仏混淆で、境内には神宮寺があって、楼門は仏教式であった。そのため、石燈籠や楼門や正殿などの破風を薦で包み隠し、瓦が落ちないように固定した。また石燈籠が傾かないように木を添えて、縄で縛った。正殿の畳も取り替えた。鳥居も添え木をしたが、最初の木は細いと指摘され、手直しされ、まるで地震対策のようであった。楼門などの鳩の糞もきれいに掃除された。春日神社の井戸水が御用水に指定された。

余談ながら、後日に、仏教式の楼門は神社にふさわしくないので、どうすべきかを問い合わせたところ、「その内に取り壊せ」との指令がであった。しかしそのまま77年間も壊されず、昭和20(1945)年7月にアメリカ軍の爆撃で壊された。

春日神社の別当である仏眼院では、25日は朝から締切り、お勤めもできず、ひっそりと籠っていた。

この行幸の時には天皇の慈悲心を顕わすため、沿道各地で仕事に励んでいる者などや高齢者に見舞金が与えられた。桑名藩領内でも仕事に励んでいる者など14人、90歳以上5人、80歳以上70人、70歳以上497人に見舞金が与えられた。

 25日に桑名宿では昼食が総人数で2082人、宿泊が2071人であった。

これだけの人数が一度に泊まったのであるから、桑名宿の大きな民家や寺院も殆ど提供されたであろう。前後の行列は9月7日から10月3日まで続き、総計すると宿泊2832人、昼食2750人、船中弁当334人に達した。桑名で休憩せずに船に乗ってから弁当を食べた人もいたのである。
 
参考資料『御東幸御用記録第一巻』三井高陽編 国際交通文化協会発行1942年
    「酒井孫八郎日記」『維新日乘纂輯第4巻』所収 1927年
「公私用留記」仏眼院性恒 桑名市博物館所蔵
    「豊秋雑筆」角屋吉兵衛 鎮国守国神社所蔵
    「桑名藩御触留」西尾市立岩瀬文庫所蔵
    

みえきた市民活動センター 〒511-0088 三重県桑名市南魚町86 TEL:0594-27-2700 FAX:0594-7-2733 E-mail:miekita@mie-kita.gr.jp